藤田嗣治と戦後民主主義のはじまり

 この頃は上野には土曜日に行くようにしている。東京国立博物館国立西洋美術館は、午後九時まで開館しているので、このところのように暑い日なら日ざかりを避けて、たとえばこの日なんかだと、午後4時ごろから東京都美術館藤田嗣治を観た後、軽く夕食をとってそれからミケランジェロを観て、常設展を観てまわっても、閉館30分まえだった。
 
 2006年に、大々的に再評価が始まった藤田嗣治の絵は、それから展覧会があるたび、ほぼもれなく観てきてるはずだが、今回の展覧会は、初めて目にするものが多かった。

 展示の仕方も、渡欧前の黒田清輝風なもの、渡欧直後のモディリアーニや中世の宗教画に影響を受けた、デフォルメした人物のころ、それから、評価され始めた頃の自画像や静物画から、後の乳白色を準備したと思われる地の色を表現の肝にした風景画、そして、乳白色の裸婦の時代、中米を旅した頃の濃密な色彩の時代、戦争画の時代、《カフェにて》に始まるレオナール・フジタの時代とバランスよく展示されていた。

 今回の展示は、乳白色直前の風景画のボリュームが厚く、なるほどここから乳白色へとつながっていくのですねと腑に落ちた気分になった。

 エコール・ド・パリの画家たちは、藤田嗣治も、アメデオ・モディリアーニも、「真珠母色」と呼ばれたジュール・パスキンも、モイズ・キスリングも、競うように素晴らしい裸婦を描いた。結局、異邦人の彼らは裸婦を描くしかなかったと言えるかもしれない。ピカソマティスのように(ピカソもフランス人ではないですが)、美術史について自覚的ではなかったとも言えるかもしれないし、狂乱の時代が彼らの才知を消費し尽くしたとも言えるかもしれない。

 日本の軍国主義というバイアスを外して、藤田嗣治てふ画家の個人史を省みると、《アッツ島玉砕》や、《サイパン同胞臣節を全うす》の2点の「戦争画」が、「戦意高揚のプロパガンダ」などではなく、レオナルド・ダ・ヴィンチの《アンギアーリの戦い》など泰西名画の戦争画がを強く意識していたと思う。後に洗礼名をレオナールとしたのもダ・ヴィンチへの敬意なのだし。

 輝かしい乳白色の裸婦を観た直後にあの戦争画を観ると、画面の暗さ、重さ、そして何より、日本人としての、軍部に対する忌避感が鑑賞の妨げになりがちだが、《アッツ島玉砕》を「会心の作」と言った藤田の心境は、鑑賞する側のバイアスをゼロにして観ると、実によくわかる。東京国立近代美術館には、藤田のこの絵と、藤田以外の画家の戦争画が一緒に展示されているが、いわば、絵のオーラが違う。

 図録に寄せられている「収集から接収へーーー占領期の戦争画」によると、1945年、つまり終戦直後のムードでは、日本の戦争画は、今考えられているような捉えられ方をしていなかった。「戦争をテーマにした美術展」みたいなものを米国本土で開催するといった話があり、そこに日本の戦争画も展示したいという話が、藤田のパリ時代の知り合いであったバース・ミラーというアメリカの従軍画家から持ちかけられたようなのだ。1945年12月6日の朝日新聞に藤田は、「私たちは美術的価値を毫も失ひたくないと真剣に描いたもので、それが、世界の檜舞台に出るのはうれしいことです」と語っていたそうだから、実際、アメリカのOCE(工兵司令官部)は、そのつもりで準備を進めていたようだった。

 しかし、これは、OCEが独断で進めていたことで、それがもっと上層部の耳に入ると、だんだん雲ゆきが怪しくなっていった。そして、結局、接収ということになってしまうわけだが、それでも、「戦意高揚」だの「軍部に協力」だのあからさまな非難をされたわけではなったが、むしろ、日本画壇の方から、米軍に忖度したのだろうか、藤田に対するそうした非難が沸き起こった。結局、藤田はいったんアメリカに出国し、そのあとフランスに帰化し、2度と日本に戻らなかった。

 このいきさつを眺めていて、私たちの戦後民主主義がどのように生まれていったかがよく見える気がする。

 《アッツ島玉砕》や《サイパン同胞臣節を全うす》が「戦意高揚」か?。それをそうにしか観させないものが私たちの戦後だったとすれば、その長い時代がどうやら終わったような気がする。f:id:knockeye:20180804175353j:plain

藤田嗣治