『太陽の塔』

太陽の塔

太陽の塔

  • 発売日: 2019/08/19
  • メディア: Prime Video

 「人類の進歩と調和」をテーマに掲げた1970年の大阪万博の、その全体のアンチテーゼとして、お祭り広場の屋根を突き破って屹立していた太陽の塔大阪万博全体は次第に時代に溶け込むように消えていったのに、そのアンチテーゼだけが今でも鮮明で新しいのは面白い。
 太陽の塔は、東京にもひとつあった方がいいんじゃないかと思っていたが、渋谷駅にある≪明日の神話≫、あの壁画が、いわば東京の太陽の塔といえるものだったと気が付いた。
 メキシコは壁画のメッカであった。フランスの絵画マーケットの在り方にあきたらなかった藤田嗣治が次に目指したのがメキシコの壁画だった。≪アッツ島玉砕≫のような戦争画は、藤田にとってはそうした「大衆へ」という意識、というか、芸術に社会性を取り戻そうとする試みのひとつであったろうと思う。
 藤田嗣治は大衆に裏切られたかもしれないが、岡本太郎自身は、大衆を信じてなかったろうと思う。岡本太郎がメキシコに残した≪明日の神話≫は、原爆の投下を扱っているにもかかわらず、おなじく空爆を題材にしたピカソの≪ゲルニカ≫のような断罪の調子をもたない。
 ≪ゲルニカ≫はまだどこか人間を信じている。「人類の進歩と調和」を信じているのだ。岡本太郎の≪明日への神話≫は、笑ってもいない、泣いてもいない、叫んでもいない、ほのめかしてもいない。ただそこにあり続けるのだろう。
 メキシコのどこかで失われていたのに、発見されて、渋谷駅の往来をかざっている。そして、そのままそこにあり続けるのだろうと思う。
 福島の原発事故のときにChin↑Ponが、福島第二原発の絵を≪明日への神話≫に描き足したことがあった。現代アートには、なんとなく臭みを感じることの方が多いのだけれども、あれはひさしぶりにエキサイティングだった。バンクシーの落書きなんかよりはるかにかっこよかったと思う。
 今年は石元泰博の生誕100年ということで、いくつか写真展が開かれている。先週末、新宿オペラシティ・アートギャラリーで開かれている写真展に出かけてきた。
 石元泰博の写真は、以前に鎌倉の美術館で観たことがあった。横浜美術館でもいくつか見たかもしれない。とくに、桂離宮を撮ったものが印象に残った。
 アメリカ移民の子として生まれ、第二次大戦中の強制収容も経験し、日米を往復して生きた。モホリ=ナジ・ラースローのもとで、バウハウスの薫陶を受けた石元泰博にとって、桂離宮モダニズムが感動的だったのはよくわかる。それは天皇家の洗練を示している。それは、戦争だ傷ついたルーツの修復だったと思う。
 この映画にチラリと映った岡本太郎の撮った東北の鹿踊りの写真は、それを超えていく力強さがあるように見えた。ずっと根源的なのである。国家という枠組みに囚われていない。生命に根ざした力強さがある。
 《明日の神話》は、意味としてより謎として、問いかけとして、社会性を持ち続けると思う。
 これに比べると、バンクシーの落書きはいかにもセコい。同じく落書きでも、キース・ヘリングみたいに顔を晒して描けばいいじゃないかと思う。こないだのオークションでのお遊びなど、結局、コップの中の嵐にすぎないとみえてしまう。それは大衆の側の劣化であるかもしれない。


映画『太陽の塔』予告編(120秒)

『太陽の塔』特報

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