岡本太郎という人は画家であり、造形作家であり、写真家であり、文章家でもあった。先月、東京都美術館で岡本太郎展を観た。12月28日までやってる。
太陽の塔のイメージのせいかもしれないが、岡本太郎は画家であるよりも造形作家の印象が鮮烈。
けっこう代表的な絵だけれども、そもそもフレームの意味はあまりないんじゃないか。
ちなみにこれは《愛》と題されている。今展覧会の中でもピカイチにセクシーな作品。ヘンリー・ムーアとかの作品と比べても遜色ない。
絵って、モノとしては一枚の板な訳じゃないですか?。岡本太郎は、そのフレームに退屈していたのではないかと思う。「芸術家は美に退屈している」と彼自身の著書にも書いてあった。
もちろん、フレーム感覚がないわけはない。たとえば、初期の代表作
には、フレームの意識、言い換えれば、何を描いて、何を隠すかという意識がはっきりしている。なので、逆説的なのかどうか、岡本太郎らしくない。
もちろん、岡本太郎も構図意識を持っていた。
でも、ひとつのフレームを切り取り、他のフレームを捨てる、ある瞬間を選び、他の瞬間を捨てる事に、絵の限界を感じていたと思える。ピカソに心酔したのも、複数の視点で絵を描くことが大きかったのではないか。どちらかというとフレームを超えたい人なのだろう。
その意味ではこういう日の丸構図の方が岡本太郎らしく感じる。
ところが、カメラマンとしての岡本太郎は見事にオーソドックス。
写実という意識で世界に向かうとこういうことになる。多くの画家は、むしろ、こういう意識で絵を描いている。
しかし、岡本太郎が絵を描くときは、むしろ、造形作家のようになる。
《明日の神話》のドローイングと原画を比べて観られるのも興味深かった。
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このドローイングと油彩の間には飛躍があるように感じる。たとえば、肖像画であればドローイングと油彩の間にはルーティンというか、誰も信じて疑わない手順がある。しかし、この《明日の神話》のドローイングと油彩の隔たりには岡本太郎の意識があるだけ。これが立体作品になっても、もしくは、まったく違う油彩になっていても不思議じゃなかった。だから、ドローイングと油彩は、まるで違う作品だといえるだろう。
確かに下書きには違いないだろうけれど、伝統的な油絵の下書きとは意味が違う。あのドローイングが伝統的な手順で油彩に仕上がる事に岡本太郎の中での葛藤はあった気がする。
抽象画の場合、絵である意味があるのかどうかという問いに常に向き合っていたと思う。パウル・クレーなんかは、出来上がった絵を切断したりもしていた。岡本太郎の場合、その結果として、造形作品や写真にも比重が移ることはあったに違いなかった。
太陽の塔のようなモニュメントが東京にないのは残念な気がする。美術館の数を考えると、あの規模の芸術作品はがあってもいい気がする。翻って考えると、太陽の塔という作品は確かにべらぼうなものであった。