東京国立近代美術館のゲルハルト・リヒター展は、彼自身がキュレーションした。展覧会場の模型を使って、展示する作品、配置、展示の仕方などを指示したそうだ。
作家自身がキュレーションに関わる展覧会はめずらしく、過去には、ベルナール・ビュフェが静岡にあるベルナール・ビュフェ美術館で企画した展覧会が記憶に残っている。
東京国立近代美術館では11月から大竹伸朗展が開催されるそうだ。16年前の「全景」を見逃したので楽しみ。あの頃は大竹伸朗を知らなかった。
ゲルハルト・リヒターは、東京都写真美術館と国立西洋美術館の所蔵しか見たことがなかった。それよりも『アートのお値段』という映画で「コレクターに買われるより美術館に展示される方がよい」と発言していて、あの映画の中ではとびぬけて知的に見えた。
もちろん、勧善懲悪的な観賞はバカげてるが、しかし、何度も言うように、あの映画のジェフ・クーンズの喋り方が、『ウルフ・オブ・ウォールストリート』のデカプリオにそっくり。アーティストというより詐欺師の話術で、もし、ゴッホにあの話術があれば、生前から巨万の富を手にできたろうにと思わせた。
各部屋ごとに必ず、グレーの絵、鏡、ガラスの作品があるのが、展覧会全体に音楽的なリズムを感じさせる。
こういう絵の横には
こういう絵がある。
《ビルケナウ》の部屋では典型的に
こういう構成になっていた。
グレイの鏡を中心にホンモノとフェイクが相対している。その奥にゾンダーコマンドが撮ったホロコーストの現場写真が配されていて、これだけは撮影不可になっていました。
ゾンダーコマンドとは、ナチスのユダヤ人収容所で、大量虐殺された同胞の後始末をさせられるユダヤ人です。おそらく決死の思いで隠し撮りしたものと思われます。ピントも甘いし、水平も取れていません。
《ビルケナウ》と名付けられた4枚の絵の下には、ゾンダーコマンドの撮ったこの写真が拡大されているそうです。この絵は、塗りつぶそうとする思いが同時に表現しようとする欲求にもなっている。
1960年代からホロコーストの表現に取り組もうとして何度も挫折してきたリヒターが2014年にこの絵を完成させたとき、ようやく「自由になった」と感じたそうです。
この絵はリヒター自身の長男を描いた絵だそうです。フォトリアリズムを思わせる写実的な絵の上に、後から引っ掻きキズのような擦れを加えているのがわかります。
絵筆をどこで止めるかは画家の悩みどころだそうです。この絵は一度描いて19年後にまた手を加えた。
ゲルハルト・リヒターの最も独創的な作品は
https://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/k/knockeye/20220712/20220712015618_original.jpg
写真の上に油彩を加えたこうした作品だろう。
ちょっとサイズ感を失う。実際、ここで見ただけだとサイズが想像できないと思う。
写真の上に油彩で彩色するという行為には、ひとつは写真というイメージを絵の具という異物と対立させることで、モノ化する効果がある。もうひとつには、絵の具という、ふつうは文字通り絵の「具」にすぎない、イメージを伝達する情報単位に過ぎないものを、写真と対置することで、これもモノとしての存在感を主張させている。
これは、まるで写真のように描くフォトリアリズムとは違い、写真と絵の具を異物として対立させることで、元の写真のイリュージョンを阻みながら、新たなイリュージョンを生み出していると言える。
これが《ビルケナウ》になると、元の写真は完全に塗りつぶされてしまう。しかし、元の写真は同時に展示されることで存在し続ける。風神雷神図屏風の裏の夏秋草図屏風のように別の作品のようでありながら血を分けた姉妹のように互いに語り継がれることになる。
絵の具を塗るというプリミティブな行為が、言葉にできない思いを載せているように見える。