Bunkamuraミュージアムで、ベルナール・ビュフェ回顧展が始まった。
ベルナール・ビュフェ美術館はフランスではなく日本にある。熱烈な個人コレクターの存在が大きいが、池田満寿夫も著書の中で、戦後の一時期、ピカソよりもビュフェに魅せられていた時期があったと書いていた。
ベルナール・ビュフェは、もちろん本国フランスにおいても高く評価されている画家であるが、同時に、日本での人気も有名なのかもしれない。以前の展覧会では、彼を追いかけていたカメラマンの、ビュフェが日本で人気があるのは、日本のグラフィズム(書道)と関係があるのではないかとの意見が紹介されていて、つまり、ビュフェを間近に知る人でさえ、日本での人気に何か特別な要因を考えたくなるってことなんだろうと思ったものだった。
たぶん、フランスには偉大な画家が多すぎるせいもあるだろう。ゴッホやフェルメールが日本で人気があると聞いても、オランダ人は何も不思議に思わないだろう。
しかし、フランス人は「ん?、なぜビュフェなの?」と思うのだろう。「ルノワールは?、セザンヌは?、マチスは?、ボナールは?」と。
ビュフェの絵は10代の頃にもう売れていた。その頃から評価されていたってことでもあるし、その頃から売らなければならなかったってことでもある。早くに母親を亡くしている。展覧会の冒頭に父子の絵がある。まだ習作と言うべき絵だろう。しかし、父は彼にほとんど構わなかったようである。この父性の喪失が彼の日本での人気に関係していると私ならいうかもしれない。
ベルナール,ビュフェはこの絵を20歳で描いた。こういう人を天才と呼ばないと、この言葉の使い途がなくなるだろう。
私は個人的な絵画体験から、この人の絵にヴラマンクのフォーヴィズムとユトリロの孤独を観ていた。しかし、彼自身は、シャイム・スーチンの影響を認めていたそうだ。
シャイム・スーチンの《心を病む女》は、国立西洋美術館が所蔵している。常設展によく展示されている。
ビュフェの「狂女」のシリーズは、たしかにここに源流を求められる。
こうした肉のモチーフを始め、多くのモチーフをスーティンと共有していることに気がついた。
ビュフェが共感していたスーティンの不安が、今回はじめて見えた。
ベルナール・ビュフェが摩天楼を描いたこの一連のシリーズは、今回も輝いて見えた。これはビュフェの《松林図屏風》だと思う。ビュフェの不安がこの縦横の線に吸い込まれていくように思う。
ベルナール・ビュフェ美術館を訪れた時、ベルナール・ビュフェは、自身のキュレーションによる展覧会を提案した。
それを再現した展覧会を観たことがあった。あれは、コレクターにとって最高の展覧会だったろうと思う。