『本居宣長』

本居宣長(上) (新潮文庫)

本居宣長(上) (新潮文庫)

本居宣長(下) (新潮文庫)

本居宣長(下) (新潮文庫)

上田秋成の文学 (放送大学教材)

上田秋成の文学 (放送大学教材)

 今更ながら、小林秀雄の『本居宣長』を読んだ。小林秀雄の最晩年の大著であるこの本は、しかし、今さら読む方がなにかしらひしひし感じるものがある。
 小林秀雄の本は人並みにそこそこは読んだ。しかし、前にも書いたかもしれないけど、『ドストエフスキーの・・・』あたりで冷めてしまった。「あれ?、俺いま何読まされてんだろう?」って感じの冷め方だった。
 それに誰かの尻馬に乗って「近代の超克」批判の側についた気になったかもしれない。つまり、戦争について、藤田嗣治のように画家ではないし、伊藤静雄のように詩人ではないし、井伏鱒二のように小説家でもないし、小津安二郎のように映画監督でもない、評論家であるこの人が、そこをどう乗り越えていくのかっていう時、『本居宣長』なの?、と当時は不審に思ったわけだった。
 この本でも扱われているが、上田秋成本居宣長の論争について、どう考えても上田秋成がまともだと思える、それと同じ不信感に近い。

「やまとだましひと云ふことを、とかくにいふよ。どこの国でも、其国のたましひが、国の臭気也。おのれが像の上に、書きしとぞ。敷嶋の やまと心の 道とへば 朝日にてらす やまざくら花、とはいかに。おのが像の上には、尊大のおや玉也。そこで、しき嶋の やまと心の なんのかの うろんな事を 又さくら花、とこたへた」(「胆大小心録」中)

 「しき嶋のやまとごゝろを人とはゞ朝日にゝほふ山ざくら花」だが、こういう歌を自分の肖像画の上に書くについて「臭気なり」と言った上田秋成の感覚の方が信頼できると思ったし、これにかんしては、今でも上田秋成の言う通りだと思う。その「さくら」と「やまとだましひ」のやらかした大虐殺を思うとさすがにいい加減にしてくれと思うし、「どこの国でも、その国の魂が、国の臭気也」と言った上田秋成喝采したくなる。
 小林秀雄

彼は、国学の専門家としてよく知っていた、国文学史のある時期に姿を現した、この古言を取りあげたまでであった

自画像の上に書かれた「やまと心」という言葉が、像を歪める。学者の顔を宣伝家の顔に変える。宣長には思いも及ばぬ事だったと思われる。

と書いているが、古事記源氏物語の言葉に敏感であった本居宣長が「やまと心」という言葉がひきおこす効果についてだけ、それほど鈍感だったとは到底信じられない。
 この論争については、小林秀雄本居宣長を曲庇していると言われても仕方ないだろう。特にいわゆる「日神論争」については、本居宣長の言い草は愚にもつかない。上田秋成は地球儀を示して、この島国の天照大御神が太陽神だからみんな崇めよと言って他の国の人が崇めると思うか?と難じたのだが、これに対して本居宣長は、定家の色紙が10枚ある、そのなかの一枚が本物で、他がニセモノだという場合、どれが本物か分からないからと言って全部疑うか?と、訳の分からないことを言っている。というより、論点をずらしている。
 小林秀雄は触れていないが、本居宣長の著書『馭戒慨言』では、豊臣秀吉朝鮮出兵を称賛している。このように、「漢意(からごころ)」に対する「やまと心」の本居宣長の概念に、排外主義が含まれていたことは重々承知したうえで、それでも改めて評価できる状況にあると思えるのは、今の日本会議とか在特会とかのうんざりする反知性に引き比べると、本居宣長は、圧倒的に知性的であるからだ。
 それは小林秀雄についても言えることだと思う。良くも悪くも今の私たちはこの人たちを相対化してみることができる。「漢意」と「やまと心」の二項対立を、偏狭なナショナリズム(という概念が後世のものなのだから)としてとらえず、日本書紀に対する古事記の、書き言葉としての日本語が成立する、その現場のドラマとして捉え直してみることには価値があると思う。
 私たちの言葉の中に、ふたつの文化が混在している、そのことの私たちの心に及ぼす意味について意識的である人がどれくらいいるだろうか?。
 例えば、今の日本国総理大臣である菅義偉が、官房長官時代に、望月衣塑子記者の質問に公然と嘘をつく。その事実を目の当たりにしながら、なぜ私たちは平気なのか?について、そこに「漢意」と「やまと心」の二項対立があると、私は感じる。
 戦後、手のひらを返すように民主主義を標榜し始める文化人に対して「私はバカだから反省しない」と言った小林秀雄が、本居宣長に取り組んだ執念は伝わってくると思う。
 手のひら返しを繰り返す日本人の源流を辿っていくと、文字を持たない言語体系であったやまと言葉と、漢字という書き言葉のファーストコンタクトに突き当たる、という小林秀雄の直観は鋭い。
 第二次世界大戦を経た後の目から見ると、ナショナリズムとしかとらえられない、本居宣長の「漢意」と「やまと心」の二元主義の本質は、キマイラ的な言葉の二重性潜んでいる欺瞞だったのではないかと思う。

宣長晩年の述作に、「伊勢二宮さき竹の弁」と題する、*伊勢二所大神宮の祭神、特に外宮の祭神についての考証がある。内宮の*天照大御神については、異論のないところであったが、外宮の祭神に関しては、中世の頃から、様々な異説が行われていた。当時になっても、論定まらず、神道家の間では、両宮の尊卑勝劣が争われていた。そういう次第で、外宮の*豊受大神の事は、「古事記伝」で、既にくわしく説いたところにもかかわらず、重ねて、別本で説く事になったのである。

 伊勢神宮に祀られている神様について、内宮の天照大御神はよいとして、外宮に祀られているのが「食」を司る豊受大神であることが気に入らない学者たちに、本居宣長ば我慢ならない。昔から内宮は天照、外宮は豊受と伝えられてきているのに、なぜそれが気に入らないのか、その日本の知識人たちの態度に本居宣長はイラつく。

 そも世中に、宝は数々おほしといへども、一日もなくてかなはぬ、無上至極のたふとき宝は、食物也。其故は、まづ人は、命といふ物有て、万の事はあるなり。儒者仏者など、さま高上なる理窟を説ども、命なくては、仁義も忠孝も、何の修行も学問も、なすことあたはず。いかなるやむごとなき大事も、命あつてこそおこなふべけれ、命なくては、皆いたづらごと也

 命は大事じゃないか、だから、食の神は大事じゃないか、だとすれば、天照と共に豊受が祀られていて何の不都合があるのか?。
 おそらく、私たちの文化が自律的に発展してきた文化であったならば、このような不思議な現象、不思議な知識人が生まれてくる余地はなかったはずとの思いが本居宣長にはあるのだと思う。つまり、本居宣長のいう「漢意」と「やまと心」の対立とはこの対立なのである。
 この対立が、幕末の動乱と明治維新を経て、偏狭なナショナリズムに変貌していったことは、皮肉でありながら必然であったかもしれないという思いが、小林秀雄にあったかどうか、考えてしまう。少なくとも、第二次世界大戦後も、これが全く解決されていない課題であることは強く意識されていたのだと思う。
 本居宣長上田秋成とで争われたもうひとつの論争は、「上代音韻論争」で、本居宣長上代の日本語には「ん」の音がなかったと主張した。これは現在の研究では正しいとされている。ただ、上田秋成が批判したのはその事そのものよりも、本居宣長「ん」のない日本語を「正」、「ん」のある外国語を「不正」としたことだった。これにはもちろん何の根拠もない。
 蛇足にこんなことを書き加えるのは、じゃあ、日本という私たちが暮らしているこの国の名前は何なんだろう?って思ったからなのだ。私たちはいつからか自分たちの国を日本だと思っているわけだが、もともとの日本語には「ん」の音はなかったのである。だとすれば「日本」というこの国の名前自体がウソの名前ということになるだろう。「日本男児」とか「日本会議」とかにまつわる胡散臭さには歴史的な裏付けがあったわけである。