上田秋成の没後200年記念展

knockeye2010-08-12

お盆に帰省するついでに、新幹線を京都駅で降りて、京都国立博物館で催されている、上田秋成の没後200年記念展に立ち寄った。

↑これは、初代高橋道八が作った陶製の上田秋成坐像。秋成の七十歳ころの風貌を写したもので、しばらく秋成自身が手許においていたそうだ。高さは20cmに満たない。
収める箱の蓋の裏には、
老いぬれば世の人数かなに波江のあしかるわざの男なりしを」
と秋成自筆の歌がある。
これに惹かれて訪ねてしまった。
この風貌が、それだけで物語るものがあるという気がしている。
江戸時代の絵画をみていて、ときどき感じることだけれど、この時代の、画家、戯作者、国学者、僧侶、歌人などの、交流の自由さが、今の時代には失われているような気がしてしまう。
芸術家同士の、交流がなくなってしまったとは思えないのだけれど、ただ、芸術が社会的行為であるという一面はひどく衰退しているように思う。
創作が、オタクと引きこもりの産物である状況のほうが異常なので、作家たちは、当然、自分たちの活動を、社会へ向けて発信していこうとする努力はしているはずだが、今は、資本が巨大なので、資本が用意したフォーマットに、作家が適応していこうとするだろうし、その適応ができないと、そもそもオリジナルの活動自体が、はなから否定されてしまうということでもあるのかもしれない。
上田秋成のころは、合作とか競演が、もっと気楽に行われていたようだ。
今回の展示にも呉春の絵に秋成が賛をしたものが何点かあるし、ちょっと感動したのは、池大雅の「春海図」。小品だが、与謝蕪村
「春の海ひねもすのたりのたりかな」
と賛をしてあった。
そういう直接的な合作でなくても、蕪村の句に
「筆灌ぐ応挙が鉢に氷かな」
というのがあるそうだ。
応挙が絵に向かう態度の真摯さが見抜かれている。
分野が違っても、お互いに刺激しあう存在だったのだろうと思う。
この展覧会で初公開となる応挙の「波に鶴・氷図」という二幅の水墨画があるが、この「氷図」のほうは、応挙でなければ描かないだろうというものだ。
古典「雨月物語」の作家、上田秋成だが、なかなか貧乏していたようで、七十五歳のころの手紙には、
「隣のきげんをそこなひ、きうに庵をいづれへも引こさねばならず候」
と金の無心を頼んでいる。
平気な顔で貧乏している、その顔が、高橋道八のあの坐像。私にはとても豊かな表情をしているように見えるのだけれど、どうだろうか。
世界全体が今よりずっと不便だったのは間違いないし、格差もそれこそひどかったのに違いない。
しかし、いまのマスコミみたいに
「あいつのせいだ、こいつのせいだ、あやまれ、テレビに出すな」
みたいなヒステリーになるやつはほとんどいなかったように思う。
上田秋成は、目が不自由というハンデを抱えながら、「雨月物語」や「春雨物語」をあらわし、本居宣長を向こうに回し、議論を戦わせている。
‘品位’とか‘こころざし’とか、かたくるしいことではなくて、やはり、自由に生きていることが大事なんじゃないかと思った。
今の人たちはずっと(野口悠紀雄の分析によると1940年ころから)役人の言いなりで生きてきたので、‘自由に生きろ’といわれてパニクっているみたい。
縄を解いてくれた人の手に逆に噛み付いている獣の姿。哀れなような気がする。
ちなみに上田秋成の墓の台座は、伊藤若冲が蟹に模して彫ったものといわれている。秋成は‘無腸’と号したが、これは蟹のことだそうで、花押も蟹を図案化したもの。
腹にものを溜めない、さっぱりとした人だったようだ。