今年はちょっと、紅葉を追いかけるみたいなことをしなかった。桜と紅葉は盛りを見極めるのが難しくて、逃すと悉く逃すってことになりかねないが、去年は、箱根美術館、鎌倉獅子舞、目黒自然教育園、畠山美術館、根津美術館とすべて色づきの良いころに訪ねることができた。そういうわけで、今年はあえて追いかけなくてもという気持ちになった。それに、先々月あたりから仕事がクソ忙しくてヘトヘトということもあった。
それでも、たまたま出くわすってことはあった。たとえば、先週の日曜日、五島美術館へ「東西の数寄者」という、逸翁美術館の名品を紹介する展覧会の最終日、それも閉館間際に立ち寄ったら、紅葉も良いころだった。
五島美術館は、東急電鉄の元会長五島慶太のコレクションが元となっている。逸翁美術館の逸翁とは、阪急電鉄の創業者、小林一三だから、東西の電車対決みたいな企画でもある。
五島美術館の庭は、根津美術館ほど広くはないのかもしれない。測量したわけじゃないから、曖昧な言い方になるが、根津美術館ほど庭がキャッチーじゃない。急な斜面を含む、面白い地形なので、作庭によってはもうすこし良くなる気がして惜しい。素人目には、たぶん水の流れがもう少し欲しいのだと思う。
ただ、門の真上を東急電車が走っていくなどは、鉄ちゃん好みかもしれない。
この写真も、もうすこし暗くなるまで待てば、良くなるかとも思ったが、そこまで粘ってみる山っ気は起きなかった。
逸翁美術館は、私が通っていた高校のそばなので、今年の初夏にも訪ねた。ひそかに懐かしい気もする。
逸翁美術館所蔵の、円山応挙の《嵐山春暁図》が素晴らしかった。
同じく、与謝蕪村の
「又平に遭うや御室の花ざかり」という句がある絵には、花は一切描かれていないけれど、春ののどかでうららかな感じがよく出ている。
又平は、「浮世又平」という浮世絵師のことだそうだが、岩佐又兵衛をモデルにしたと言われる歌舞伎の登場人物で、実在しないようだ。もし実在したにせよ、蕪村とは時代が違うので、実際に遭うわけはないが、絵と同じく余白に思いを遊ばせるべきなのだろう。
蕪村といえば、出光美術館の「江戸絵画の文雅」という展覧会で、
《夜色楼台図》を観た。
以前、サントリー美術館で、「若冲と蕪村」という展覧会があった。伊藤若冲と与謝蕪村は、同い年だそうで、しかも、同じころに京都のすぐ近くに住んでいたのに、全然交流の跡が見えないそうだ。上田秋成という共通の友人もあり、お互いの存在は知っていたはずだが、方向性が全然違ったと思う。若冲が絵師を志しているのに対して、蕪村は文人という意識であったろうと思う。
蕪村については、萩原朔太郎が『郷愁の詩人 与謝蕪村』という文を書いていて、その中で、与謝蕪村を発見したのは正岡子規だと書いている。だとしたら、与謝蕪村と正岡子規を結んだその線のこちら側には高浜虚子と夏目漱石がいて、向こう側には松尾芭蕉がいることになるだろう。与謝蕪村の絵は、私たちが今使っている言葉の源流のようなものかもしれない。
又平に遭うや御室の花ざかり。又平かどうかも分からない人が、御室かどうかも分からない背景で、花びら一つも描いてない絵なのに、ここに春が感じられるとすれば、それは言葉を観ていることになるかもしれない。
五島美術館が遅くなったのは、世田谷美術館にブルーノ・ムナーリを観に行っていたからだった。ブルーノ・ムナーリについては、またいつか改めて書きたい。折りたたみのできる彫刻てのがあった。彫刻といっても紙で、普段は紙挟みなどに入れておいて、旅先のホテルなどで、美が欲しい時、広げると彫刻になる。サリンジャーの小説に、草野球で外野を守っていると退屈だからといって、グラブに詩を書いていた少年が出てくるけど、あの感じに似ている。
世田谷美術館のある砧公園も紅葉が見頃で、銀杏が降り敷いていた。
猫は、世田谷美術館で売っていた。素材はソープストーンで、手にしっくりなじむ。アフリカ製だそうだ。ブルーノ・ムナーリと併催されている「アフリカ現代美術コレクションのすべて」という展覧会にちなんで売っていたのだろう。
これは、エル・アナツィの《あてどなき宿命の旅路》。菅木志雄などの「もの派」を思わせる。アフリカで伝統的に使われてきた臼と杵の廃材だそうだ。
アブドゥライ・コナテの《アフリカの力》。
若い頃、大阪でウスマン・ソウの塑像を集めた大展覧会を観た。あれは素晴らしかった。
ところで、世田谷美術館にあるセタビカフェのガレットが美味しい。
美術館の外からも入れるので、砧公園を散歩がてらに立ち寄るのもよいかもしれない。