ジョン・コンスタブル展にちょっとモヤモヤしたので、勢いで府中市美術館に与謝蕪村を観に出かけた。府中市美術館は予約制にしていないので、こんな具合にコロナ禍以前の訪ね方ができる。
これはカンザクラだけれども、今年も東京では、都市排熱で沖縄より早く桜が咲く。その歪さ、人間の活動が自然を簡単に変えられてしまうおそろしさ。東京の開花宣言を聞いて、グレタ・トゥンベリなら怒り狂うだろう。私たちも少なくとも泣くべきなのだろう。サンドウィッチマンは、東日本大震災のとき東北にいて、「津波見に行こうか?」とか言ってたとか。たまたま一緒にいた誰かが「今回のはちょっと揺れが大きいので一応逃げましょうか?」って言ったそうだ。そんな風に今わたしたちは東京のソメイヨシノを見ている。「沖縄より東京の桜が早いなんてちょっとおかしいですよ」と誰かが言ったとして、私たちは誰も逃げない。死ぬのはグレタ・トゥンベリの世代だし。
これは今回の展覧会のキービジュアルに使われている蕪村の絵の一部。蕪村の五、六十代の頃の絵だそうだが、画題は彼がまだ二十代後半だった頃の実体験で、秋田の九十九袋という里に宿したとき、夜中に何やらごとごと音がするので起き出してみると、古寺の庭で老人が麦をついていた。日中の暑さを避けて夜作業をしている。蕪村もひとしきり月をめでて老人に名を尋ねると卯兵衛という。
涼しさに麦を月夜の卯兵衛かな
と句が添えられている。
月夜に麦をついていた男の名前がたまたま卯兵衛だったっていうおかしみ。
コンスタブルと比較する必要はないけれども、写実は確かに大事には違いないが、東洋の絵画はそもそもそこを目指していないってことを再確認する。
室町時代の水墨画のコレクターとして知られているピーター・F・ドラッカーは、西洋の風景画がディスクリプションであるのに対して日本の山水画はデザインだと指摘している。これはしかし面白いことに、昨日書いたターナーの絵の描き方に通じている視点だともとれる。ターナーの意識は画面のデザインにあったことは間違いないとおもわれる。すでに完成している絵に赤いブイを一点描き加えるなどは、画竜点睛とかいう東洋の逸話を思い起こさせる。モネの《日の出、印象》も水墨画を思わせる。ジャポニズム云々よりむしろ、画家に空間の意識があるかどうかがポイントだろう。
横尾忠則は「上手くなることと下手になることは私には同じこと」とTweetしていた。上手いか下手かの比較にあまり意味はないんだと思う。このツィートを探してみたが見つからなかった。そのかわり
生まれて来た目的は? そんな目的はありません。まあ、強いていうなら真面目にならないことです。真面目にならないためには相当の修行が必要です。修行を怠ると、すぐ真面目に逆戻りしてしまいます。学歴があればあるほど、この修行は難しいです。
— 横尾忠則 (@tadanoriyokoo) 2020年5月14日
というツイートを見つけた。
ニューヨークが無限大ホールを卒業して、NGKに出てカルチャーショックを受けたそうだ。去年のM-1でマジカルラブリーが漫才かどうか議論になったが、そういう議論が馬鹿馬鹿しくなるほど、師匠連中の漫才はぶっ飛んでるのだそうだ。
嶋佐 「あれは上手いのか?」
屋敷 「上手いんやで。あのまま俺らが真似してみ?。絶対受けんで。」
と。
今年のお正月話題になったオナニーマシーンのイノマーさんの最後のコンサートだけれど、ハイパーハードボイルドグルメリポートの上出さんの質問に答えて「あんまり楽しいのも考えもんだね」と言ってた。上手い下手にこだわってるとあんな答えは出せない。
与謝蕪村は、松尾芭蕉を再顕彰した人としても知られている。奥の細道の絵巻は見たことがあったが、今回は屏風が展示されていた。
与謝蕪村の絵は人物に味がある。山水だけなら同じ文人でも浦上玉堂に凄みがあると思うが。