三菱一号館美術館で「テート美術館所蔵 コンスタブル展」が開催中。そして、府中市美術館で「与謝蕪村展」が開かれている。
車道の真ん中に立って撮影できる無人の丸の内。コロナ禍?。美術館が開いているのだから、朝早すぎるってわけでもなかったと思うが。ちなみにこういう写真は、銀塩カメラの時代ならTS-Eレンズが必要だったって、そんなこと知る人も少ないか。
ジョン・コンスタブルがJ.M.W.ターナーと並び称せられる英国の風景画家だとは知っているが、日本では、ターナーほどには作品に接することがない。
日本でのターナーの人気が夏目漱石の『坊っちゃん』に由来するものなのかどうかわからないが、今回の展覧会でもやはりターナーの天才が際立って見える。
今回の展覧会では、コンスタブルの《ウォータールー橋の開通式》
と、ターナーの《ヘレヴーツリュイスから出航するユトレヒトシティ64号の出航》
が、ロイヤルアカデミー展での初お目見えと同じくまた隣り合って展示されている。今日の目からすると、ターナーには、やはりその後に続く印象派への流れが良くも悪くも見えてくる。印象派の登場までこの後まだドービニーやブーダンも控えている。
コンスタブルはフィリップス・コレクションでみた《スタウア河畔にて》
が印象派を飛び越えてまるでジャクソン・ポロックのようだった。画面全体に飛び散っているこの白い飛沫は、一瞬、何なんだろうと思うが、すぐにこれが輝きの表現であることがわかる。
ドラクロワになると三原色に分割されるこの白い粒が、コンスタブルにおいては輝きの表現として用いられている。巧拙の問題というよりも、風景の中で輝きを捉えようとしたその意識自体が、外光派の意識と重なっていると思うのだ。
このころから画家が屋外で絵を描くことが多くなった。それはひとつにはチューブ入りの絵の具の発明。もうひとつにはグランドツアーというイギリスの若者たちの大陸旅行のブームにより、ピクチャレスクと言われる美しい風景への興味が高まった。
コンスタブルの場合は徹底していて、最終的な仕上げまでも屋外でやってしまうこともあったそう。絵を見るときは屋内で観るわけだから、仕上げまで屋外で行うその感覚は、画家よりも写真家に近いと思える。
ターナーと比べて省略や演出の意識が低い。
ターナーは自分の絵の隣にコンスタブルの暖色系の絵が飾られると知った後、すでに展示されていた自分の絵に赤いブイをひとつ描き加えた。コンスタブルは「ターナーはここにやってきて、銃をぶっ放していったよ」とのちに語ったそうだ。この頃のコンスタブルにはたぶんそういうことができなかった。というか、はなからそういう気がなかったと思う。でなければ現場で仕上げる意味がない。
そこまで写実に徹したコンスタブルが《スタウア河畔にて》のような、ポロックを思わせる表現主義めいた絵を描いてしまうことが面白い。
ターナーには何を描いたか分からない絵が何点か知られている。ターナーはまず構図全体の効果を先に描き込んで、そのあとディテールを描いていったときいたことがあるから、それはそういう下絵なのかもしれないが、詳細はわからないのだろう。
ターナーはだから、赤いブイがそこにある効果を熟知していた。しかし、コンスタブルにとっての絵はそういうものではなかったと思う。
これはコンスタブルが晩年に描いた《虹が立つハムステッド・ヒース》。虹は想像で描き加えられたものだし、水車も実際には存在しないそうだ。
これをどう思うべきなのか迷う。写実にこだわり続けるなら虹を描かなくてもよかったのにと思ってしまう。今回の展示では少なくとも、コンスタブルはターナーの影のように見えてしまった。