最近、美術展について書いてない気がするけど、行ってないわけではないし、行っても良くなかったわけでもないが、ピーター・ドイグを上まわるほどのボリューム感に出逢わないので、たとえば、どこそこの美術展で観たボナールがよかったというだけでは、書かずにすごしてしまう。(しかし、ボナールの《サーカスの白い馬》は素晴らしかった。)
この日曜日は秋雨前線がようやく後退したのか気持ちよく晴れたので、府中市美術館に出かけた。「日本の美術を貫く 炎の筆《線》」という展覧会がやってる。訪ねたいと思っていたが、あそこは駅からだいぶ歩くので晴れた日でないと出かけにくい。ただ、晴れた日には、府中の森公園が歩くに心地いい。
府中市美術館は、ことしで開館20周年だそうで、コロナ禍下でなければ記念展を開催する予定だったそうだ。そういうなかで急遽開かれている展覧会なので、苦しいといえばそうかもしれないが、逆にキュレーターの力量が試されるのかもしれない。
縄文の火焔型土器から始まり、仙厓、白隠の水墨へとすすむ。中原南天棒のものが充実していた。
火焔型土器は、現代の誰かがそう名付けた。他ならぬ今の私たちがそこに火炎を見たのである。その後に続く弥生式土器のユークリッド幾何的な慎ましやかさに比べて、実際には複雑な点対称の文様に縁取られているその土器を、火焔型と名付けたとき、私たちは自分の血の中に火炎を見ていた。
時代が降っても、白隠や仙厓の禅画、浦上玉堂の文人画など、デッサンが確かでもなければ、パースも正しくない墨だけで描かれた絵に私たちが惹かれるのだとすれば、私たちはそこにも火炎を見ているのだろう。
明治以後のある時期、西洋画と衝突したショックで、横山大観が「朦朧体」を作りはしたが、小林古径の世代ではもう線の美しさに戻ってきた。
2018年にこの美術館で回顧展のあった長谷川利行があり、今年の1月にオペラシティで回顧展があった白髪一雄があった。
が、この展覧会でなんと言っても白眉だったのは、椛田ちひろの《死に死に死に死んで死の終わりに冥し》、《生まれ生まれ生まれ生まれて生の始めに暗く》の二点だった。
以下のサイトに制作風景がある。
artfrontgallery.com
この人の作品《Dark energy #x》は、去年の東郷青児記念美術館の公募展FACE展で観た。あの時は今回よりずっと小さかったが、それでもインパクトがあった。
縄文土器、禅画、白髪一雄を経て、椛田ちひろの現在にいたる、この見せ方はなかなか素敵だと思った。キュレーションというか、リミックスのような。途中に谷岡ヤスジのマンガや、飯塚琅玕斎の花籠がインサートされるのも良いアクセントになっていた。
10月20日からは後期展示に展示替えだそうでそれも楽しみ。