ハマスホイとデンマーク絵画 東京都美術館にて

 東京都美術館で「ハマスホイとデンマーク絵画」。ハマスホイは、2008年の秋に国立西洋美術館で観た。そのときは、「ハンマースホイ」と表記していた。その後、一時期、「ハマーショイ」などとも呼ばれていたようだったが、今回は「ハマスホイ」。
 北欧の言葉はなじみがないので、どちらがどうなのか、一般人にわかりかねるのはもちろんだが、美術館で展覧会を開くときに、いちばん現地の発音に近い表記にしておけばいいと思うのだが、「ハンマースホイ」、「ハマスホイ」「ハマーショイ」「ハメルショイ」とか、表記が安定しないと、現実的なことでいうと、検索に困る。
 今回は、ハマスホイの作品と共に、「スケーエン派」と呼ばれる画家たちの絵も展示されていた。これは、2017年の春に、国立西洋美術館の新館で特集展示があった。「SKAGEN」と書いて「スケーエン」なんですね。今、ウエブで確認すると、これは当時も「スケーエン」だったが、私の記憶の中でかってに「スカーゲン」に上書きされていた。デンマークに「SKAGEN」という時計のブランドがあって、そちらは「スカーゲン」と表記しますからね。
 それはともかく、2008年の「ハンマースホイ展」は衝撃的だった。今回みたいにほかの画家の絵はほとんどなかったように記憶しているが、これももしかしたら、ハンマースホイの絵のインパクトが強すぎて、ほかの画家の記憶が消えているのかもしれない。あのときはとにかく「ストランゲーゼ30番地」だったか、同じ室内の絵をこれでもかというくらい何枚も展示してあった。高島野十郎のロウソクの絵を並べて見せた展覧会があったが、あれ以上のインパクトだったと思う。
 カーテンのない窓、そこから差し込む陽光のわずかな変化への偏執。開け放たれたドア、ほとんど家具のない部屋、そこに舞う埃、あるいは、うっすらとつもる埃。
 人物がいたとすれば、それは奥さんのイーダの後ろ姿。着ている服は黒一色で、何の飾りもない。

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《背を向けた若い女性のいる室内》ヴィルヘルム・ハマスホイ

 ハマスホイの絵を形容するのに「静謐」は、よく言われる言葉だけれども、同じく静謐であっても、西洋の静物画は伝統的にもっと多くのものを描きこもうとしてきたと思う。しかし、ハマスホイは、対象を描くことよりも、空間を描くことに感心を抱いているように見える。静物画ではなく室内画なのだ。
 前の展覧会の時に知ってショックだったが、ハマスホイはピエール・ボナールを酷評していた。親密な室内を好んで描いたアンティミストという意味では、描く対象は似ているとも思えるのだが、ボナールは、絵画が平面であることを主張するナビ派の旗手であったので、空間を偏愛するハマスホイとは合わなかったろう。
 前回の展覧会が、ハマスホイを深く掘り下げるものだったとすると、今回のは、ハマスホイの周囲を巡ってみる展覧会のようだ。
 例えば、今回の展覧会を見ると、北欧の陽光がこの画家にもたらした影響を無視できなくなる。

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《夏の夜、ティスヴィレ》ヴィルヘルム・ハマスホイ
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《スケーイン南海岸の夏の夕べ、アナ・アンガとマリーイ・クロイア》ピーザ・スィヴェリーン・クロイア

 クロイアは、スケーイン派を代表する画家だそうだ。ハマスホイを指導したこともあるそうだ。このふたつの夏の夕景は、ちょっと他の土地では見られない青だと思う。
 スケーイン派の意味は、というかつまり、画家があえてデンマークの北方にある漁村に赴く意味は、パリに背を向けるという意味であるだろう。
 ハマスホイを見ていて羨ましく思うのは、北欧の陽光の美しさももちろんだが、生活を愛し、楽しむことのできる、気を衒わない生き方だ。
 絵画が、マーケットと美術史の奔流の中で、常に更新され続けなければならないパリの外にいて、描きたいものを描き続けている自由さは、北欧らしいと思うし、それがハマスホイの「静謐」じゃないのかと思う。
 ただ空っぽの部屋の絵に人々が魅了されるのは不思議ではないだろうか。なぜ、人はこれを見ずにいられないのだろうか。