ピエール・ボナール展

 国立新美術館にて、オルセー美術館特別企画のピエール・ボナール展が開かれている。
 オルセー美術館の館長は去年からローランス・デカールオランジュリー美術館と兼務しているが、2008年からその職についていたギ・コジュヴァルがナビ派の研究者であったせいもあり、オルセー美術館ナビ派のコレクションは充実している。
 ボナールの日本での展覧会は14年ぶりだそうである。個人的には、10年前、2008年に川村記念美術館で「マティスとボナール」という展覧会を観てから、ボナールは気になる存在であり続けている。
 ボナールは「日本びいきのナビ」と言われたナビ派のひとり。ナビ派1888年、ポール・セリュジエがポール・ゴーギャンに師事しながら描いた《愛の森を流れるアヴェン川》を「タリスマン(護符)」として結成された。

 この絵が出発点なわけなので彼らは絵を色面の構成と捉える傾向が強い。ナビ派を離れた後もそういう傾向を持ち続けたと思う。
 先日のヴラマンク、モネと、同じ色彩画家としてボナールを比べてみて、ボナールに特徴的なのは空間意識の欠如だと思う。
 同じように日本画を好んでも、モネが浮世絵の構図さら受け取ったものは空間意識だったのは、《舟遊び》

などをみても明らかだが、ボナールにとっては装飾性こそが興味の中心だったのではないかとそう思う。

 ヴィルヘルム・ハンマースホイの展覧会図録に彼がボナールの展覧会を観た感想ってのが「全くのクズ」とあったのを見てショックだった。もちろん、公の発言ではないが、ボナールとは真逆でほとんどモノクロームの室内画しか描かなかったハンマースホイにとってはそう見えても仕方ないことだったかも知れない。

 装飾性、言い換えれば、平面的な色面構成の意識は、3次元を2次元に再現しようとする空間意識を排除するなら、絵を成立させる必要条件だと思う。
 ある意味ではボナールの狂気と感じられるのは、まったくの具象画、現実のモチーフを描きながら、色だけが自由自在で、女性の顔がむらさき色だったりするのはショッキングだし、それは色面構成とかカラリストとかそういう話を逸脱している。

 同じようにナビ派で、同じようにアルカディア風の絵でもモーリス・ドニなら

色面構成の意識が伝わる。
 上のボナールの絵は、線や面は印象派風に曖昧なのに色だけがナビ派風に独立を主張しているので奇妙に見える。なので、逆に面白いとも言える。
 ローランス・デカールも動画で語っているが、のちにモネの後継者と言われる、印象派風に回帰したころの風景画はもっと色が繊細になる。ボナールは印刷で損をするタイプの画家だと思う。村上隆が「カンブリア宮殿」で、ボナールについて「印刷でしか知らなかったころはキライだったが実物を見て大好きになった」と語っていた。写真家のソウル・ライターもボナールを意識する画家にあげていた。
 ボナールが愛されるのは、風景よりも、裸婦をはじめ日常的な室内を描いたアンティミストとしてだと思う。
 たとえば、今回の展覧会のポスターにもなっている猫の絵。

猫が好きな人なら、猫がときどきこんな風に伸びることがあるのを知っているだろう。

 そして、室内で湯浴みする裸婦の肌の繊細な色使い。

結局は、ハンマースホイがボナールを意識したのもこの室内を描いた繊細な色があったからだと思う。
今回の展覧会では、この絵と全く同じ構図の写真も展示されていた。

 構図が写真に依っているために、日常が捉えられる一方で、大胆な冒険はできないことになるだろう。そして、彼自身がカラーフィルムの粒子であるかのように色彩に先鋭的になったのだと思う。ボナールのアンティミズムは写真のアンティミズムだった。写真を構図のために用いる画家は珍しくないと思うが、ボナールの写真は写真そのものとしてすでに優れていたのだと思う。

 長年モデルを務め愛人でもあったマルトの写真も多く展示されていた。ボナールの裸婦に湯浴みする図が多いのは、マルトの療法のひとつだったのではないかという説が図録にあった。
 ボナールがマルトと結婚した数ヶ月後に、別の愛人が自殺したそうだ。