横浜美術館で、マックス・エルンストの展覧会がはじまった。
「フィギュア×スケープ」という副題に、マックス・エルンストの再評価を願うキュレーターの意欲が感じられる。
私自身のことをいえば、マックス・エルンストという画家を、もちろん知ってはいたが、‘フロッタージュ’という、技法の人という認識しかなかった。そして、それより突っ込んで理解を深めようという気もなかったのが正直なところ。
だが、靉嘔もそうだし、ジョセフ・コーネルも、ピカソも、あるいは、ドガもそうといっていいかもしれないが、絵をつきつめていくと、‘描く’という行為の限界を超えていく。人間のイメージ全体にとって、描くことが表現できる領域は狭小すぎる。
そもそも、さきにイメージがあったからこそ、人は描き始めた。描くとは、イメージに捧げられた行為だったはず。それがいつの間にか、描くという手の技術がイメージを不当に占拠しはじめたといえるだろう。
しかし、写真の登場以降の画家たちは、描く技術の終末論をそこに見出したと思う。同時に、イメージの世界が、そこに重なっていないことにも気付いたはずなのである。
描くという絵画の迷信をどう超えてイメージに近づくか、マックス・エルンストの‘フロッタージュ’は、ただ技法というより、そうした写真以後の画家たちの、描くこととの苦闘の一つの大きな成果といえるだろう。
図録によると、エルンストは友人との小旅行の帰路、パウル・クレーのもとを訪れたミュンヘンで、ある雑誌に掲載されていたジョルジュ・デ・キリコの絵をはじめて見た。後年、そのときのことをこう語っている。
「私はそのとき、ずっと昔からよく知っている何かを発見したような感情に襲われた。あたかも既に見たことのある出来事が、私たちに自分の夢の世界の全領域を開示するようであった。・・・」
エルンストもまた、オットー・ディックスが参戦した第一次大戦に、4年間、砲兵として従軍する。エルンストの戦争についての意見はこうである。
「機械仕掛けの人間たちは、自分たちは、なるほど魂は持っていないが、しかし死ぬことはできる、ということを証明するため、互いに殺し合う。」

- 作者: ローターフィッシャー,Lothar Fischer,宮下誠
- 出版社/メーカー: PARCO出版
- 発売日: 1995/10
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オットー・ディックスは、人間が非人間的に潰され腐っていくことに衝撃を受けたわけだが、エルンストはそうした人間のなかの非人間性を見た。
私の感じというだけだが、オットー・ディックスは、絵の中に人の手ざわりをさがしているようなところがある。しかし、マックス・エルンストは、人間を統合された一貫性のある存在だという風に思っていない気がする。
それは、絵にも表れていて、フロッタージュで描かれた森や鳥は、シュールレアリズムという言葉がまとっている雰囲気を裏切って、ずっと原始的で力強い。多分、私たちの根っこの部分に訴えてくるモノがあるのだろう。
<最後の森>という晩年の作品があるが、それまで何度も繰り返されてきた森のイメージを見てきた目には、それは確かにはっとさせられる。なにか、「もののけ姫」のダイダラボッチが死んだ後の森のような、不思議な明るさがある。
深い色の美しさも今回の発見だった。
展示期間は6月24日までだが、途中で展示替えがある。前期は5月16日まで。両方行く人は半券を捨てないように。リピーター割引があります。
そのあと、鎌倉の美術館で、石元泰博の写真展を見た。もっとこの人の仕事全体を見られるのかなと思ってたけど、桂離宮の写真だけだった。
でも、アメリカ国籍の日本人が、桂離宮という洗練に出会った感動が伝わってくる。桂離宮にモダニズムを発見して震えているわけ。多分、シャルロット・ペリアンが見たものも同じだったろう。だから、ここはすこし立ち止まって考えてみてもいいのだろう。住まうとか暮らすとかいうことの意味について。
この日もまだ寒かったのだけれど、鎌倉は鎌倉祭りの日で、桜もそろそろ咲き始めて、樹によっては八分咲きくらいのものもあった。来週あたりが見頃かもよ。