アンディ・ウォーホルが、広告業界でスタートしたころに描いているものは絵画的、その後、画家に転じてから描いたものは広告的。
実際、初期に描いたキャンベルスープの缶は、絵の具が垂れていたり、缶がつぶれていたりするのだが、初の個展に展示された32個のキャンベルスープは、数からいっても大量生産だし、缶の外観も、品質管理の検印済みといった潔さである。
つぶれている缶とつぶれていない缶の違いはなんだろうか?。つぶれている方が個性的で、描くのが難しい。ウォーホルは、アートから個性と専門性を排除することで、アートに挑戦したのだし、自分自身がアーティストになる意味を見いだした。
「画家が、いたずらに名門富豪の個人的愛玩のみに奉仕することなく、大衆のための奉仕も考えなければならない」と言ったのは、レオナール・フジタだったが、工業化した近代社会に発生した大衆のために、アートはどうあるべきかの問いに、たとえば、浮世絵にその答えを見いだした画家もいたかもしれないし、フジタやメキシコの画家たちのように、壁画に道を求めた画家もいただろうが,写真、映画、テレビ、広告、と現実の方が、はるかに速くアートを追い越していったあとに、ようやく明確な答えを提示したのは、アンディ・ウォーホルだった。
そもそも、絵画の歴史を広告の歴史ととらえ直せば、教会の天井とか、サロンの壁とかが、もはやマスメディアとして機能しないのは明らかで、アンディ・ウォーホルは、絵画のフォーマット自体を作り替えたわけだった。
「そもそもどうしてオリジナルである必要があるの?」とかいう、アンディ・ウォーホルの言葉が紹介されていたが、広告と絵画の価値を逆転して考えれば、たとえばピカソにオリジナリティーがなぜ必要なのかといえば、オリジナリティーがなければ、「広告できない」からである。ピカソの絵はピカソ自身を広告し続けてきたといえるだろう。
アンディ・ウォーホルは、一昨年くらいまでの感覚では、なんとなく微妙に古い感じがしていたのだが、去年は、パワーズ夫妻のコレクションが、アメリカン・ポップアート展として開催され、その図録の表紙は、アンディ・ウォーホルのキャンベルのスープだったし、そして、今年はこの大規模な回顧展。
これはもしかしたら、近代工業化社会が、インターネットの定着によって、大きく変化しつつあるあらわれなのかもしれない。アンディ・ウォーホルは、微妙に、ではなく、十分に古くなった。今の社会を生きるわたしたちには、絵画が広告的であることにそれほどのインパクトはないのだが、それでも、ウォーホルの描いたキャンベルのスープには、いまだに色あせない新しさと、いくぶんかは懐かしさを感じる。
ダンテ・ゲイブリエル・ロセッティとアンディ・ウォーホルを同時に観て、さらに言えば、木島櫻谷を観て、画家と画家じゃない人の違いは、絵を描く衝動があるかないかだと思った。絵を描く衝動を持っている人に、時代が何かを描かせる。ロセッティもウォーホルも櫻谷も、その点は共通していると思う。
森美術館のエスカレーターの前に、アンディ・ウォーホルがペイントしたBMWのレーシングカーがあって、それだけ撮影が許されていたので撮ってきた。ウォーホルらしいかといわれれば、全然らしくない。しかし、その色と筆の跡に画家を感じた。