まったく余談だけど、『人新世の「資本論」』を読んでて「ジェフ・クーンズ=資本主義、アンディ・ウォーホル=ポピュリズム」という図式が頭に浮かんだ。
ジェフ・クーンズが作り出しているのは人工的な希少性だろうと思う。
ナチズムが欧州を席巻したあと、アートの中心地がパリからニューヨークに移動した。でも、それは、パリのアーティストがニューヨークに移住したにすぎなかった。
アートシーンがパリにあり続けるかぎり、アートの権威はパリにしかない。ニューヨークは新しいアートシーンを必要としていた。
ポップアートの大衆性、商業主義、匿名性、大量生産、それは、それまでの美術史の要請でもあったし、同時代の要請でもあった。
美術史の文脈からすると、ポップアートは、本来、アートを希少性から解放するはずだった。しかし、そうならなかった。アンディ・ウォーホルのブリロボックスは、流通しているブリロボックスとどう違うか?。全く違わない。
それでは、ブリロボックスは希少性を失ったか?。とんでもない。アンディ・ウォーホルのブリロボックスの落札価格は206,500ドルだ。
では、その希少性は誰が作ったのか、といえば、市場が作った。アンディ・ウォーホルがそれを意図したかどうかは知らない。しかし、市場は、希少性のないところに希少性を作り出す魔法を手に入れた。
その魔法の使い手の最たるものがジェフ・クーンズだと言える。
ジェフ・クーンズと彼の作品《ラビット》。落札価格91,100,000ドルだ。風船のうさぎを金属で再現しただけである。
こういうことをコンセプト・アートとか名付けると、ここに希少性が生じる。
これに100億円を投じるのがまさに資本主義である。ジェフ・クーンズは美を作ったのではなく商品価値を作ったのだ。まさにアメリカらしいアーティストで、ここに至って、アメリカのアートシーンが19世紀のパリのアートシーンとどう違うかが論じられる。
ゴッホの絵の価格が高騰するのもそこに商品価値があるからだが、それはゴッホの絵の価値とは何の関係もない。それがつまり資本論なのである。
アメリカのアートシーンはトランピアンとともに行き着くところまで行き着いたかもしれない。この先に何があるのかは予測しがたい。
ヨーゼフ・ボイスの道が残ってるかも。