ダミアン・ハースト 桜 観ました

 国立新美術館の会場奥で見られるこのインタビューは示唆に富んで面白い。YouTubeにもあるので紹介したい。字幕が出ない場合、画面右上の「cc」というとこを押してください。


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 まずは現代の芸術家にとって絵を描く「リスク」について。
 2012年に東京都現代美術館で靉嘔の大回顧展があった。「いつ虹を始めたのかと問われることがあるが、今ではそれをはっきりと思い出すことができる・・・・」と始まる、すこし長めの文章が掲示されていた。1958年の渡米後、‘線やフォルムは過去の巨匠たちの焼き直しにしかならない’、‘残されているのは色だけだが、ピカソのように青の時代、桃色の時代、白の時代と、一つずつの色を追求していては、何度生まれ変わっても完成に至らない。’用いるべきはすべての色でなければならない。しかも、光のスペクトラムどおりの順番でなければならない’と、赤から紫へ、キャンバスを埋めていった。
 そして虹を描いたあと、「これでもう絵を描かなくてもいい」と思った。現代の芸術家にのしかかるオリジナリティの抑圧がよくわかる。
 ダ・ヴィンチの時代には誰もオリジナリティに気をかける必要がなかった。彼らは工房でひたすら衣の襞をデッサンした。彼らはアーティザンとして、画工として、傑出することで、アーティストになった。ルーベンスの絵画を見ると、工房の画工たちが描いた絵の一部、主人公の顔だけをルーベンスが描いたものがある。その顔だけが傑出している。
 アーティザンとアーティストを分けているのは、そうした力量だけであった。アーティストとアーティザンの違いは、鯨とイルカの違いにすぎなかった。言い換えれば、違わないのだ。ちなみに、山下達郎に「ARTISAN」というアルバムがある。これは音楽家が「アーティスト」と名乗ることに対する抵抗だというニュアンスのことを本人がラジオで語っていた。
 画工が画家に、アーティザンがアーティストにならざるえなくなったのは、写真が発明され、時を同じくして日本の浮世絵を発見したからだ。日本画の世界では、浮世絵は主要ではないが、西洋の画家たちが浮世絵に魅了されたのは、浮世絵のモチーフが彼らと同じだったからだろう。ファッション、演劇、都市生活、浮世絵は彼らと同じモチーフをかれらの絵とはまるで違う技法で生き生きと描き出している。
 写真が発達すれば画家の仕事はなくなると発言していたジャン=レオン・ジェロームが、印象派の絵をルーブルに所蔵することに反対したのは示唆的だ。印象派の画家たちは絵が写真ではないと気づいた最初の人たちだった。
 では、絵とは何か?。印象派以降の画家たちは、絵を描くだけでなく、絵とは何かという問いを抱えることになった。言い換えれば、オリジナリティを求められるようになった。そして、現代芸術家は、絵が描けなくなった。絵を描くことが「古くさく」感じられた。絵を描くなんてそんなオリジナリティのないことは。しかし、上のインタビューでダミアン・ハーストが答えているように、オリジナリティなどというものはそもそもない。「こんな多面的な世界で誰もオリジナルになれない。」
 絵とは何かという問いは、アカデミズムに対するカウンターとして存在しただけだった。その問いかけに答えはない。それに答えてしまうと、アカデミズムに対して別のアカデミズムを打ち立てるだけになり、つまりはまたアカデミズムに取り込まれるだけなのである。
 現代芸術家が絵を描かないのは、絵を描く勇気がないからだ。アカデミズムというスタンダードが瓦解したあと、0から1に踏み出しても、また歴史をなぞることになるだけな気がして踏み出すことができなかった。生きて死ぬより生きない方がマシに思えるのだ。
 その結果として彼らに残ったのは、マルセル・デュシャンの便器だけだった。あれからもう100年がすぎている。100年もただひとつの便器から逃れられない。コンセプトだけがあってモノがないより、モノだけがあってコンセプトがない方がはるかにいい。コンセプトしかないは、何もないのと同じ。何もないより悪いかもしれない。夏休みの終わりに宿題をしていない小学生と同じだ。しかし、モノしかないは、それ自体がすでにコンセプトでもあり、しかも、さらに多くのコンセプトを生産しつづける。
 こうしてダミアン・ハーストは0から1に踏み出したわけ。
 インタビューアーのティム・マーローが「アートの無限の可能性にうんざりすることはないか」と尋ねている。ダミアン・ハーストは、「若い頃は何を描けばいいのかまるでわからなかった。無限の可能性が怖くて、考えるほど描けなくなった」と。
 岡本太郎は「芸術家はいつも美に退屈している」と書いているし、猪熊弦一郎は「絵を描くのに必要なのは勇気だ」と書いていた。どんな絵でも、それを描きはじめるには最大の勇気を必要とするが、描きあげたものは常に最善の美には足らない。
 ティム・マーローは恐ろしいことを言っている。ゴッホについて、傍目に可能性に見えてもそれは不可避性のはじまりでしかないと。
 生きていることは死につつあることなのである。確かに。生まれてこなければ死なない。だから、コンセプトのまま何も生まなければ何も古びないと思ったのがコンセプチュアル・アートだったのである。正しい。だけど、正しさが何だって話。
 コンセプチュアル・アートは美を否定した。美がアートのテーマである必要はない。美について語ることは神について語るのに似ている。私はどうひっくり返っても仏教徒でしかないが、それでも神の存在を否定も肯定もできない。神が存在しようがしまいが仏教には何の関係もない。だから、原理主義者にとってより、美について考えることは神について考えることに似ている。美が絶対でも必然でもないとして、そこに踏み込まない者を賢明だと讃える気にはならない。
 ティム・マーローの言うように、ダミアン・ハーストの桜には中心がない。

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ダミアン・ハースト《桜》部分
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ダミアン・ハースト《桜》部分

 こうして切り取っても、部分と全体に価値の差がない。マチエールに油絵の喜びが満ち溢れている。絵とは何かという問いを追い越して美が飛び去っていく。