中野量太監督が東日本大震災を映画にしようとする、と、この切り口になるんだという。東日本大震災も2011年だから、あれからもう9年も経っている。
その間に、それにまつわる映画もたくさん作られてきた。ぱっと思いつくものをあげれば、まず、園子温監督の『ヒミズ』、あれは元々マンガが原作の映画だったんだが、撮影中に大震災が起こって、急遽シナリオを書き換えたんだった。それがすごい緊迫感を生んでいる。染谷将太、二階堂ふみをスターダムに押し上げた作品としても忘れがたい。
園子温監督では、『希望の国』も東日本大震災を扱った映画だが、個人的には『ひそひそ星』の方が射程距離が長いように感ぜられた。
中野量太監督の前々作『湯を沸かすほどの熱い愛』のヒューマニズムには、こころのどこかで鳴るアラームを意識していた。それは自分でもまだちゃんと片付けてられていない感覚だった。単に、古傷が傷むというだけだったかもしれない。
ともかく、『湯を沸かすほどの熱い愛』の作家性の強いオリジナル脚本を、作品に昇華させたのは、宮沢りえの存在だったと思う。宮沢りえの女優としての力量を再認識させた映画だった。『紙の月』ではキャスティングが間違ってたと思う。
中野量太がヒューマニストであるかどうかはともかく、中野量太が東日本大震災を映画にしようと模索したとすると、写真家の浅田政志にぶつかったというのが面白い。
映画『浅田家!』は、浅田政志の半生記のような、言い換えれば「浅田政志は如何にして写真家となりし哉」とでも言うべき成長譚でもあり、一方で「写真とは何ぞや」という写真論にもなっている。それはたぶん中野量太自身の映画論にもなっていると思う。
『湯を沸かすほどの熱い愛』の、宮沢りえとオダギリジョーの強い女とダメ男の関係が、『浅田家!』でも、主人公の浅田政志役の二宮和也とその彼女の黒木華、主人公の両親の平田満と風吹ジュンの関係に、二重に反映されているようで面白かった。
『浅田家』は浅田政志の写真集のタイトルでもあるのだが、映画『浅田家!』は、浅田政志が東日本大震災の現場で出会った写真洗浄のボランティアを撮した『アルバムのチカラ』を原案にしている。
被災した写真を洗浄して持ち主に返すボランティアを始めた学生を菅田将暉が演じている。
TVドラマ「MIU404」とはまるで違う人みたいで、あたりまえだけれども、この人ホンキで役者だなと感服させられた。
同じくボランティアの人に、『37seconds』でもボランティアのセックスワーカーを演じた渡辺真起子、被災者のひとりに北村有起哉など『湯を沸かすほどの熱い愛』の時に、ダメ元で宮沢りえにオファーしたというキャスティングのセンスはバツグンだと思う。
『湯を沸かすほどの熱い愛』の時に感じた警戒感の正体が、『浅田家!』で少しわかった気がした。
つまり、私たちは物語を生きているかどうか。私たちは「人間」という物語を、「家族」という物語を、生きているのでしょうか。それともその物語の外側、その書き手、読み手の思惑の外に、私たちの生はあるのでしょうか。
その問いは、その問い自体が少しおかしいのかもしれないという疑念とともに、いつも心に浮かんでくるようだ。
だから、『浅田家!』のようにメタ構造になっている作品の方が、私としては息苦しく感じないようである。