『私だけ聴こえる』

 この週末に観た映画は3本とも素晴らしかった。まずは『私だけ聴こえる』。
 今年、米アカデミー賞を席巻した『CODA』の、この映画は実際のCODA(child of deaf adults)に取材したドキュメンタリー。ポスターに使われているきれいな女性はナイラさんという『CODA』の主人公と同じく聾の父母と兄を持つアメリカの高校生。だから、当然ながら、アメリカの映画なんだと思ってたのだけど、意外なことに、監督は松井至という日本人で、幸運なことに舞台挨拶に出会した。
 この映画はもう7年前から取材を始めていたそうで、『CODA』やその原作のフランス映画『エール!』とは脈絡がないそうだ。
 むしろ、映画制作の発端は東日本大震災で、その復興支援の一端として、津波で亡くなった聾者の方たちに焦点を当てたドキュメンタリーを制作しようとしていた。国際事業だったので、聾者の方達の手話を英語に訳す必要があり、その時、通訳を頼んだのが、映画の冒頭に登場するアシュリーさんだったそうだ。
 アシュリーさん自身もCODAである。津波の被害から聾の父母たちを助けた日本のCODAたちを取材しながら、アシュリーさんはどんどん落ち込んでいった。松井至監督がその理由を尋ねると、震災の悲惨さもさることながら、それよりも、日本のCODAの人たちがCODAの自覚を持っていないことに打ちのめされていたのだった。
 映画の中でも語られているが、日米の文化の壁を超えて、聾者を親に持つ日本の人たちとアシュリーさんは分かり合えた。つまり、アシュリーさんが幼い頃から経験してきた、多重性、孤独、無理解などを彼らと分かち合えたということなのだ。
 であるにもかかわらず、彼等は自分たちがCODAであると気づいていない。ほんとうはCODAという広い世界に住んでいるのに、彼等は闇の中にいると思っている、その闇の辛さをアシュリーさんは誰よりも理解できたわけだろう。
 松井至監督もこの時はじめてCODAという言葉を知ったそうだ。そして、アシュリーさんに勧められて、CODAについてのドキュメンタリーを撮ることになった。アシュリーさんというパイロットがいてこそ、CODAのコミュニティに取材することができた。アシュリーさんがいなければこの映画は成立しなかった。その意味ではこの映画は東日本大震災の生んだ小さな奇跡のひとつなのだろう。
 監督が日本人なのに、アメリカのCODAのドキュメンタリーなのにはそういういきさつがあった。もちろん、最初のきっかけは東日本大震災の被災者なわけだから、日本人のCODAに取材してもよいわけだし、現に、今まさに日本のCODAについて取材を重ねているそうだ。しかし、これは、CODAに限ったことではなく、日本社会の抱えている宿痾というべきかもしれない、アメリカでは取材OKとなって撮影がすすめば、これが映画化されるのに問題が起こることはまずない。誰であれ、公の場で自己の立場を表明するとき、社会がそれを受け入れるのである。取材を受け入れてカメラの前に立った時点で、表現が成立する。その表現を社会が尊重するからである。
 しかし、日本では「出る杭は打たれる」。監督の言葉を借りれば自己表現が「呪いとなって」襲いかかってくる。コミュニティの中で居場所を失う場合がある。そのために、日本でいくら取材を重ねても、素材すべてがお蔵入りになる場合が珍しくないそうだ。
 コミュニティの自己保存プログラムが自動的に作動して個人を抹殺してしまう。それ自体は普遍的なようだが、そのプログラムの背後に、少なくとも江戸時代にはあった儒教のような哲学すら今はない。明治の為政者がこれに代わって提示したものは、およそ社会のバックボーンたりえないお粗末な代物だった。そうした裏付けのないコミュニティの自己保存プログラムを正義と取り違えるから思考停止と言われる。
 実際、聾者のコミュニティで自然に発達した手話のコミュニティを抹殺しようとしたのも明治政府だった。豊かな多様性、沖縄やアイヌ、どころか日本各地の土着信仰さえ現に抹殺したのである。単一民族神話というありもしない神話をでっち上げたのが近代日本社会だった。
 東日本大震災から生まれた小さな奇跡、パンドラの箱の隅の小さな希望を、せっかく日本人が映画にしようとしても、結局、舞台をアメリカに取るしかなく、それよりはるか後に作られた『CODA』がアカデミー賞をとったおかげで、何とか公開できる。日本社会はそういう社会にすぎないことを現実として認識しておくべきなのだろう。
 少し話は変わるが、この映画を観ていて、返す返すも残念だったのは、斎藤陽道の映画『うたのはじまり』を見逃したことだった。コロナがいちばん激しかった時に公開されて、上映館も少なく、当時は家を出ることさえ憚れた頃だったので見逃してしまった。斎藤陽道夫妻の子供がまさにCODAなのである。斎藤陽道の著書『声めぐり』と『異なり記念日』は、CODAの両親の目線から書かれた本として貴重であるだけでなく、単によい本だと思う。
 


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