『i-新聞記者ドキュメント-』観ました

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i 新聞記者

 おぎやはぎの小木さんが観て「面白い」と言っていた。
 森達也監督のドキュメンタリーは、東日本大震災を取材した『311』しか観ていない。あの時は、ジャック&ベティで、綿井健陽トークショーに来ていたと記憶している。
 東京新聞の望月衣塑子記者に密着したドキュメンタリーだが、途中から徒労感が漂う。「なんで撮ってんのか、わかんなくなってくるよ」みたいなことまで監督の口をついて出た。観てるこっちも「確かに」と心の中で同意せざる得なかった。カメラが重そうなのだ。
 望月衣塑子記者の行動に同行してみると、まったく、普通に新聞記者というだけ。私たちが、「新聞記者ってこういう仕事ををしてるんだろうな」と思っているとおりの仕事をしているだけだ。
 だから、それをカメラで追いかけていてもドキュメンタリーとしては面白くもなんともない。ところが、その普通のことが、官僚や政治家に引き起こす反応は異常としか言いようがない。
 オルタナティブ・ファクトは、トランプ大統領の発明かと思っていたが、もしかしたら、菅義偉官房長官の方が先だったかもしれない。
 辺野古沖で作業する船の上に堆く積まれた赤土の写真を手に、「ヘドロ化するおそれのある赤土の量が多すぎませんか?」と聞いているのに、「事実に基づかない質問にはお答えできません」というのだ。菅義偉にとっては「官僚の報告した内容」が事実であって、「新聞記者の取材した内容」は事実ではないという。そこに食い違いがあれば、調査して真実を明らかにするのが本来のあり方のはずだ。
 上村秀紀報道室長の質問妨害もひどい。こういうことがまかり通る国に生きているのは恥ずかしい。こんな官僚しかいない国は恥ずかしい。
 望月記者が外国人記者と交わしていた会話にヒントがある気がした。アメリカのジャーナリストはギルドに属している。ニューヨークタイムズワシントンポストに属しているわけじゃない。なので、彼らにとってのレゾンデートルというか、アイデンティティというか、存在意義というかは、彼らがジャーナリストであることにかかっている。だから、そこに、ごく自然に、ジャーナリストとしての職業倫理が生まれる。
 それに対して、日本の新聞記者は、朝日新聞なら朝日新聞社、読売新聞なら読売新聞社、とそれぞれの新聞社に属している。なので、そこには、社畜根性しか生まれない。
 同じ構図は、官僚や政治家にも通底している。官僚としての倫理、ステイツマンとしてのプライドなどというものの持ち合わせはなく、省益保護と党利党略だけがある。
 これは、思い返せば、丸山眞男が、東京裁判の被告たちを分析した「権限への逃避」「既成事実への屈服」と同じことだと思うがどうだろうか。丸山眞男ファシズムの本質と指摘した構造が、今なお日本の中枢を蝕んでいると思うと暗い気持ちになる。
 明治維新は「武士」という自覚のある人たちが成し遂げた革命だった。薩摩藩士、長州藩士である前に、まず、「武士」であるというプライドがあり、そこには「武士道」という倫理が伴っていた。
 そんなふうに、自然に倫理を育む、自己の存在を縛る意識が、明治以降の日本には失われたのだと思う。
 
 左側のジャーナリストたちが、「安倍応援団」と呼ぶ集団の存在も初めて目にした。参院選の応援演説をする安倍晋三を、応援している、この集団を「安倍応援団」としか名付けられない、言葉の貧弱さにめまいがした。
 佐藤優によると、ナショナリズムとは、中央集権化で共同体が崩壊したあと、国家を幻想の共同体としてフラッシュバックしてくる共同体意識なのだそうである。
 自分たちを束縛もすれば保護もしてくれる母胎としての共同体への願望を国家に投影する意識がナショナリズムだそうだ。なので、ナショナリズムは罪でもない、一方で、正義でもない、生理現象のようなものにすぎず、ごく私的な感情にすぎないことはこころえておくべきだ。
 だから、ホントなら、日本という国にナショナリズムを感じる日本人は、韓国という国にナショナリズムを感じる韓国人と理解しあえるはずなのである。ところが、なぜかここでは、私のナショナリズムは正しいが、あなたのナショナリズムは間違っているというどこまでも不毛な罵り合いが始まる。
 それは、そういう人たちが、レゾンデートルというか、アイデンティティというか、自己の存在意義そのものをナショナリズムにかけてしまっているからだろう。日本人であること、韓国人であること、を分けているのはただ単に血のつながりだけなので、そこに行動の規範となる倫理は含まれない。そのために、その罵り合いはどこまでも低劣に落ちていくことができる。
 「安倍応援団」と「アンチ安倍」の罵り合いにもそういう倫理観は見受けられないようである。日本社会が倫理の基盤になる自己規程を失ってしまったのは、明治維新はによって、武士という価値観が消滅し、そして「連」などという文人のネットワークも消滅し、廃仏毀釈によって宗教的なつながりも消滅したことが大きい。靖国がその代用にならなかったのは日本会議を見ればわかる。
 戦後は、高度成長期、日本の共同体意識を支えたのは、「会社」だった。しかし、バブル崩壊でそれも失われた。会社が共同体意識の依代を担っていたために、会社の枠を超えた労働組合の連帯が育まれなかったことが、今になって響いている。
 日本社会は、地域、宗教、労働組合、とすべての領域で繋がりを喪失してしまって、すべての人が孤独に喘いでいるように見える。
 映画の結末で、たぶんあれはロバート・キャパが撮った写真だと思うが、パリ解放後のフランスで、ナチ協力者の女性が丸刈りにされて引き回される写真に、監督のモノローグが載せられる。あの罵り合いを、引いた目線で見てしまった森達也監督があの写真を出したくなるのは分かる気がした。日本社会のこの罵り合いが、殺し合いに変わるのには、ちょっとしたきっかけがあればいいだけかもしれない。