『安倍官邸 VS. NHK 森友事件をスクープした私が辞めた理由 』

 
 週刊文春の相澤冬樹さんの記事がおもしろかったので、この著書を読んでみた。
 森友事件の本質は、財務省が国有地を異常に安く払い下げたことと、その経緯が記録されている公文書を改竄したことで、野党とマスコミがその点をぶらさずに攻撃し続けてていたら、真相を明らかにできたかもしれない。
 しかし、まず、野党は、安倍首相が国会で、安倍首相か昭恵夫人が事件に関わっていたら議員を辞めると発言したことで、昭恵夫人と事件を結びつけるロジックを探し回すのに必死になってしまい、事件の本質を蔑ろにしてしまった。
 このことについては、以前にも書いた記憶もあるが、首相夫人は政治機関ではないので、首相夫人がどんな発言をしようが、責任なんてものは発生しない。つまり、「首相夫人に指示されたので」は、財務省が何をやったにせよ、その言い訳にならない。財務省は、その決定の責任を首相夫人に負わせられない。
 それとも、財務省の決定に首相夫人が寄与できる法的根拠があるとでも?。立法府である国会議員が、こんな馬鹿げたロジックに迷い込んだのは、政局にしたい欲が動いたからだ。その結果として攻撃がぶれた。野党が「昭恵夫人昭恵夫人」と連呼してるのを、財務省は苦笑いしながら胸を撫で下ろして見ていたのではないか。
 また、マスコミは、森友学園の籠池理事長夫妻というテレビ映えするキャラクターに焦点をしぼってしまった。籠池夫妻の詐欺事件の方は、財務省の事件から目を逸らすための国策捜査だと、この著者は見ている。
 こうして、本来、財務省の背任と公文書改竄が問題の本質だった事件が、政局にしたい野党と、視聴率至上主義のマスコミの2つのバイアスがかかったために、何がなんだかうやむやになってしまったということになるだろう。
 東京に視点をおくと、森友事件は朝日新聞のスクープに見えるが、実は、地元大阪では、NHKが先に放送していた。これが、全国ニュースになるのがずっと遅れたのは、NHKという組織の問題だろう。それについては、もう10年も前から指摘され続けていて、もはや定説というべきだろう。
 報道の良心が、相澤冬樹さんのような職人肌の記者個人のスキルだのみであることには危機感を覚える。個人ではなく真っ当な判断が、システムとして機能する集団でなければならないはずだと思う。
 たとえば、私学審議会の共同記者会見で梶田会長が、森友学園の小学校について、認可適当の答申が出ていれば通常はそのまま認可するが、検討の結果、認可しないこともありうる、と語ったことを、著者以外のほとんどのメディアが「認可される」と報道したのに対して、著者だけが「認可されない」と報道した。結果は、認可されなかったんだが、これを、この著者が評している通りの「リテラシーの欠如」とだけ考えていいのかどうか、ほとんどの記者が「どうせ認可されるんだろ」と思い込んでいたのではないか。
 リテラシー云々ではなく、それ以前に、記者という職業意識よりも、記者という特権意識の側にいるので、子供を学校に通わせる親の立場よりも、安倍晋三記念小学校の側にほとんどの記者が属していたから「認可される」と思い込んだとしか思えなかった。
 『さよならテレビ』の時に、海外では、記者はジャーナリストのギルドに属する職能集団の一員という意識が高いのに対して、日本では各新聞社やテレビ局に属する社畜意識しかない、と書いたが、その実例を、森友事件の一場面で見せられることになるとは思わなかった。