小川洋子の『密やかな結晶』

密やかな結晶 (講談社文庫)

密やかな結晶 (講談社文庫)

 チャーリー・カウフマンが、小川洋子のこの小説を映画化するそうなので読んでみた。
 小川洋子は海外でも読まれるらしく、以前は『薬指の標本』がフランスで映画化されたこともあった。
 しかし今回は『マルコヴィッチの穴』のチャーリー・カウフマンなわけだから、期待が高まる。
 島全体で記憶を失っていく人たちの物語。現象として、モノについての概念と記憶が失われていくのは、『世界から猫が消えたなら』に似ているが、この小説が書かれたのは1994年なのでこちらの方がはるかに早い。
 しかも、面白いのは、そうした記憶の消滅が、官憲の手によって強制されるのでなく、島の人たち全体で自然現象のように起こる。権力はむしろ、そういう現象の後を追うように、記憶の消滅を、いわば「保護」しようとしている。というのも、一部で何故か記憶を持ち続ける人たちがいて、権力側は、彼ら異端を徹底的に排除しようとする。そういう人たちは『アンネの日記』みたいに、当局の目を逃れて隠れ棲む。
 秦の焚書坑儒とかナチスの退廃美術展のようなことが、権力の強制としてだけでなく、大衆の側で自然発生するところがすごく怖い。
 1994年といえば、阪神・淡路大震災の前年で、まだ携帯電話すら普及していなかった時代なのに、大衆に自然発生的に抑圧が共有されるこの感じは、当時の読者はこれをどう読んでいたのか想像もできない。まるでSNS上で出所の不確かな正義感があれよあれよといつの間にか抑圧としてまかり通ってしまう今の時代を予言されているように思った。
 この小説のどんなところがチャーリー・カウフマンを刺激したのか、彼がこれをどんな風に映画にするのか楽しみ。