『月』ネタバレ

 この映画の題材となったやまゆり園事件の衝撃は憶えている人も多いだろうと思う。だから、それを虚構の作品として成立させることには独特の困難さを伴う。
 辺見庸の原作がそうなのか、映画の脚色なのか知らないのだが、主人公がやまゆり園事件の実行犯である植村聖ではなく、その同じ時期に、やまゆり園で働いていた非正規雇用の職員(宮沢りえ)にしたのは、それ自体が抑制であり、良心であるとも言える。
 宮沢りえの演じる「堂島洋子」は本業は作家なのだが、書けなくなってここに勤め始めた。映画の冒頭に、東日本大震災直後の被災地を歩く洋子が描かれる。洋子が書けなくなったキッカケのひとつに東日本大震災があることが後でわかる。
 ショックを受けてとかではなく、出版社の意向で、醜い部分を避けて、希望の持てる部分だけを書いた。その作品は評価され、名声も得たのだが、それから何も書けなくなった。
 一見、やまゆり事件とは何の関係もないこの作家を主人公に据えたことが、この映画の世界を深めたし、射程を長くしたと思う。
 映像の一貫性としても、被災地のシーンは有効に働いている。堆く重なる瓦礫、打ち上げられた魚の死体。この瓦礫と軟体動物のイメージが映画全体を貫いている。
 迂闊なことに、観終わるまで石井裕也監督作品だと気が付かなかった。『茜色に焼かれる』も確かに困難な実話の映画化だったが、雰囲気が全然違う。じゃあ、撮影監督だけでも違うのだろうと思ったら、鎌苅洋一で同じ。照明も同じく長田達也だった。全体に寒色系に色が整えられ、露出はアンダー気味に抑えられ、『茜色に焼かれる』の色調とはまるで違うので、石井裕也監督作品だと気が付かなかった。
 石井裕也監督なら『茜色に焼かれる』も、世間を騒がせた実話の映画化だったわけだから、出来上がった作品が同じ雰囲気になっても不思議ないわけじゃないすか?。それが全く違うってことに舌を巻いた。帰宅後もう一度石井裕也で検索したくらい。というのは「石井・・・」って映画監督が多いから、もしかしたら他の人かと思って。
 実行犯を磯村勇斗が演じる。このキャスティングが素晴らしかった。『PLAN75』の時もそうだったが、社会のルールに従っているだけなのに、なぜかはみ出してしまうって青年をやらせると抜群によい。
 また、二階堂ふみの演じた作家志望の職員の役も効いていた。辺見庸作品の味わいでもあるだろうけれど、「対話」が浮ついていない。ちゃんと話し合う、ある意味では、というか、今の価値観では「うざい」というべき人たちがこの映画の主要人物たちである。
 例えば『対峙』という映画なんかが4人の人物の対話で進むと生硬に感じられたりする。それは、ちょっと日本人が対話を避ける傾向にあるためではないかと疑うことがある。
 確かに、対話だけではリアルさが欠ける。しかし、対話もやはり現実を動かすという意味で、対話も現実なのである。二階堂ふみ磯村勇斗オダギリジョー宮沢りえの4人で交わされる会話が、この映画の重要なシーンであることに異論はないだろう。
 小津安二郎の映画は確かにほとんど言葉に意味がない。というか、少なくとも、説明的な言葉は一切使われない。そして、それを日本人だけでなく世界が愛してきたのだけれど、しかし、孤独な個人が世界に対峙する時、言葉を発する必要がある。それまで避け続けていたら、退屈なデッサンが積み上がるだけではないだろうか。
 石井裕也監督は『生きちゃった』の頃から日本人と言葉というテーマにコミットしてきたと思う。逆に言えば、『生きちゃった』『茜色に焼かれる』の二作品があったからこそ今回の『月』が成立できたとも思える。
 『生きちゃった』『茜色に焼かれる』とも個人的にはすごく好きなのだけれど、興行的にはあまり評価されてなかったみたいなので、これがどう評価されるか興味深い。

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