『私のプリンス・エドワード』『縁路はるばる』

 『私のプリンス・エドワード』『縁路はるばる』っていう、香港の映画を観た。
 なんというか「物語の終わった後」感が漂っている。そんな気がするのは先入観かもしれないけど。
 カーキ・サムって人が両方に出ていてたぶんスターなんじゃないかと思う。好まれるのがわかる気がする。これも先入観かもしれないけど「無害」な感じ。って言って悪ければ「安心感」。
 女優はみんな綺麗。女優がきれいであることになんの不満もないはずだけれど、それさえ不安に感じてしまう。
 例えば『ロストキング』主演のサリー・ホーキンスとか『バッドランズ』の安藤さくらは、きれいとかきれいじゃないとかじゃないし。『バッドランズ』の安藤さくらはたぶんあてがきだろうな。わざわざ原作の主人公の性別を変更したわけだから。
 『私のプリンス・エドワード』は女性が主役の結婚をモチーフにした映画。『縁路はるばる』は、カーキ・サムが主人公の恋愛映画だけれども、それよりも、今の香港がにじみでているように思えた。
 例えば、香港内を移動するのに許可証がいるとか。詳しくないけど、英国領の昔からそうなんだろうか?。
 旧共産圏では珍しくない気がするけど。シベリア鉄道なんかでは、ほとんど駅ごとにパスポートの検札に来ていたイメージ。自国民が自国内を移動するのにパスポートがいるなんてと思ったものだったが、大陸的な感覚では当然なのかも。
 こういう比べ方はおかしいけれど、『覇王別姫』が、ほぼ中国の近現代史そのもののドラマだったことを考えると、ああして「大きな物語」として過去を振り返ることができた時代は、少なくとも未来に希望を持てた時代だったのだろう。
 新世代の主人公たちは、人生の瑣事にふりまわされながら、イギリスか台湾に移住しようかどうか、それこそ、ふと話し合ったりする。
 香港が返還される時、こんなディストピアが待っていると予想した人がどれほどいたのだろうか?。そして、そのディストピアで人がけっこう平気で生きているってことも。
 小津安二郎の『晩春』は今となっては反戦映画に見える。1949年の映画だけれども、小津安二郎が戦地から帰国したのは1946年。父と能を観る娘が、そこに居合わせた父の再婚相手になぜあんなに憤るのかについては、それに先立つ15年の戦争を無視して語れない。
 今回の香港の二作品が小津安二郎に似てるとか、匹敵するとかは全く思わないが、それでも、何気ない日常を描きながら、そこに入り込んでくる時代のトゲみたいなものが、期せずして作品に緊張感を与えていると思う。


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