『旅するローマ教皇』

 ジャンフランコ・ロージ監督の『海は燃えている〜イタリア最南端の小さな島〜』が、なんと言っても傑作ドキュメンタリーだった。2016年度ベルリン国際映画祭金熊賞
 先立つ『ローマ環状線、めぐりゆく人生たち』も2013年度ヴェネチア国際映画祭金獅子賞。ドキュメンタリーでこの2冠は快挙だったはず。
 ただ、『ローマ環状線、めぐりゆく人生たち』は、イタリアや、少なくともヨーロッパの生活感覚がないと楽しめるかどうかわからない。日本人としては、というか、個人的には眠たかった。でも、あれがたとえば、名古屋とか、仙台とかが舞台ならすごく面白いんだろうなとは想像できた。
 で、繰り返しになるけれど、『海は燃えている〜イタリア最南端の小さな島〜』が突出して傑作だと思う。ドキュメンタリー映画監督として、フレデリック・ワイズマンが一番優れていると思っている者にとっては(『ニューヨーク公共図書館 エクス・リブリス』なんてエルビス・コステロが出ていてもテロップも出さない)、作家が表に立たない抑制と、ひるまず対象に肉迫するカメラの力のバランスが高いレベルで均衡している。
 2020年の『国境の夜想曲』は、やや作家の気持ちが表に出てしまったと私には見えるところがあって、その分、失速したところもあったと思う。そっち方向に行くならマイケル・ムーアまで行くしかないわけで。
 今回の『旅するローマ教皇』は、何しろ、イタリア人がローマ教皇を撮るわけだから、良いも悪いもないっていう気楽さはあったと思う。
 作家との接点は、『海は燃えている〜イタリア最南端の小さな島〜』だったのではないか。ローマ教皇フランシスコがランペドゥーサ島を訪ねるシーンもあった。
 南米出身初のローマ教皇であるフランシスコについては、Netflix

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がわかりやすい。
 ドキュメンタリーではないものの、ある意味では、この映画にとってのエピソード0と見ることもできる。
 このふたりのローマ教皇ベネディクト16世とフランシスコによってカトリックの歴史が変わった。その変わるキッカケは

だった。
 ジャニーズ事務所どころではない解体的な出直してが迫られたので、ここから始まるローマ教皇フランシスコの旅の必然性が、この二作品を見るとよくわかると思う。
 「2013年から9年間、37回、53か国への旅」と書かれているが、そういうことよりも、ダライ・ラマに会い、ロシア正教の代表と会い(これはゲルマン民族の大移動でローマ教会が2つに分かれて以来の会話じゃないだろうか)、イスラエルパレスチナに行き、キューバにも行った。
 選ばれている場所を見れば、ローマ教皇フランシスコが、すぐれたジャーナリストであることがわかる。カトリックのような全世界に支部を持つ宗教団体のトップなら、今は、このジャーナリズム感覚が絶対に必要であるとわかっているだけでもすごいと思う。
 世界でこの感覚を持ちえている宗教家はダライ・ラマとこの人だけだろうと思う。宗教に限ったことではないが、進まなければ腐っていくだけ。
 特に、カナダで先住民が強制的に改宗させられたことを謝罪していたのには驚いた。それこそ「カノッサの屈辱」的な中世のローマ教皇にはありえないことだ。もし、その時代の感覚のままなら、よくぞ未開人どもを改宗させたと、現地のキリスト教徒たちを褒め称えたはずなのだ。
 むかし、和英辞典で「改宗」を調べたとき、「christianize」とあって苦笑いしたことがあった。英語話者にとっては「改宗」は「キリスト教化」と同義なのかと。現にそうだったのだろう。それもつい最近まで。もしかしたら今でも。キリスト教徒がどれほど驕り高ぶっていた(いる?)かよくわかる。
 そして、ローマ教皇であるということは、つい最近まで、つまりそういうことなんでしょって思われてきたわけ。つまり、キリスト教徒が、古き良き「俺たちが一番」的な感覚に浸るためのアイコン。
 だが、それではもう世界の現実に立ち向かえないと気づいたってことなのである。その辺の事情が『スポットライト』と『ふたりのローマ教皇』を観るとわかりやすい。
 ある意味では、というか、ある人々にとっては、これは宗教の破壊だろうが、私はそうではないと思う。
 ダライ・ラマも『ダライ・ラマ14世』というドキュメンタリー映画
「私を悪魔と言う人もいるが、私は悪魔ではない。また、私を神や仏の生まれかわりのように言う人もいるが、馬鹿げている。私はただひとりの人間だ。50億人のうちの1人にすぎない。」
と語っていた。
 これはチベット仏教について聞きかじったことのある人にとってはまさに驚きだろう。しかし、これだからこそ宗教に価値があると言えると思う。

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