『それでもドキュメンタリーは嘘をつく』と日本アカデミー賞の結果について

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 今年の日本アカデミー賞は、作品賞、主演男優賞、主演女優賞と『新聞記者』が席巻したみたい。意外な結果だったけど、新型コロナのせいで、無観客で行われている式典会場でこの結果は、メッセージが鮮明で、なかなかやるもんだと思った。
 これまで、日本アカデミー賞に注目したことがなかった。権威や威厳も感じたことがなかった。それを言うと、本家アメリカのアカデミー賞でさえ、ハリウッド村の村祭りと言われてもいたが、あっちの村は規模が桁違いにでかい。村の方が世界よりでかいくらい。
 日本は、国自体が村みたいなものだから、その小さな村の中のさらに小さい映画村の祭りってなると、ホントに太秦映画村のエギジビジョンくらいの感覚しかなく、どっちかというと、キネマ旬報の年間ベストテンの方に歴史の重みを感じていた。『この世界の片隅に』がアニメ初のベストワンだったり、森崎東の『ペコロスの母に会いにいく』や橋口亮輔の『恋人たち』がベストワンに選ばれたりは、評者の良心などといいたくなる何かを感じさせてきた。
 森達也が監督した『i新聞記者』は観たが「i」のない『新聞記者』の方は観なかった。この映画で扱われているたぐいの事件をフィクションにすることに意味があるかどうか疑わしく思ったし、むしろ、現在進行形の事件をフィクションにすることで、記者クラブのエクスキューズになりはしないかという懸念を感じた。実は、今もそう思っている。いずれにせよ、いかにジャーナリズムが情けないとはいえ、映画がその代用になるとはちょっと思えないところだった。
 しかし、問題は、ジャーナリズムが情けないことであって、こういう映画の価値が否定されるわけではない。記者クラブジャーナリズムの怠慢はひとまずわきにおいて、映画界は映画界としてこういう映画をちゃんと顕彰するというなら、それはそれで力を持ちうるだろう。
 この授賞によって、日本アカデミーは、一段ステップアップを果たしたことになるだろう。これは、日本アカデミーに権威が生まれた瞬間であったろうと思う。新聞ジャーナリズムと官僚組織に侮蔑の一撃を加えたことになるのだから、本来、テレビも新聞も持つはずである、独立した良心をすくなくとも映画界は保持しているということを内外に示したことになる。
 ともかく、拍手。無観客の一人として拍手したい。
 繰り返しになるが、機能しないジャーナリズムの代用だと思ったので、観に行かなかったのだったが、『新聞記者』が映画として面白いなら、その部分はどうでもいい。面白いんなら観てみたいね。
 ふつう、この手の映画の例としては『ペンタゴン・ペーパー』とか『スポットライト』とかにしても、新聞記者が巨悪に立ち向かう姿を描くものなのである。日本の場合、政権とずぶずぶの記者クラブしかないのに、そこにどうドラマが生まれるのか、とうてい想像できなかったのだが、それをちゃんとエンターテイメントに仕上げたのなら大したものだ。
 でもまあ、もし、時を巻き戻しても、わたしはぎりぎりのところで、やっぱり森達也の『i新聞記者』の方を選ぶだろうと思う。フィクションとドキュメンタリーはどうちがうか、やらせと演出はどう違うか、扇動と報道はどうちがうか、むずかしいところだ。
 たまたま森達也監督の著書『それでもドキュメンタリーは嘘をつく』を読んだばかり。もともとは『ドキュメンタリーは嘘をつく』という題名で出版されていたのを文庫化に当たり「それでも」を付け加えたのだそうだ。
 文庫版のあとがきにそのいきさつが書かれている。『ドキュメンタリーは嘘をつく』を読んだ、先輩の土本典昭から送られてきたハガキに、内容にはほぼ同意するが、しかし「嘘」はいけない、「嘘」とは少し違うとあって、確かにその通りだと思って「それでも」を付け加えたそうだ。
 この本は、ドキュメンタリー作家森達也の履歴書のようでもあり、またちょっとした日本のドキュメンタリー史みたいにもなっている。原一男の『ゆきゆきて神軍』には衝撃を受けたのを憶えているが、ほかにも、こんなにたくさんのドキュメンタリーとその作家がいることに気が付いていなかった。
 今度、ジョニー・デップ主演で水俣が映画化されたが、土本典昭のドキュメンタリーと互角に渡り合えるかどうか楽しみでもある。