韓国映画の発展の最大の功労者は、CJグループのイ・ミギョン副会長だというのが早くも定説になっている。ドリームワークスに投資したのを皮切りに、25年間をかけて、韓国の映画人を育ててきた。
『パラサイト』のアカデミー賞受賞は、その地道な努力の成果だったとは、衆目の一致するところになりつつある。
といいつつ、実は、個人的には、『パラサイト』はそんなに好きじゃない。賞はとれそうにないけど『哭声/コクソン』とかのとんでもない感じの方が好きなんです。
朝井リョウが、遅ればせながら、という感じで『パラサイト』の感想を書いていた。「におい」が、後半の展開にリアリティーをもたらしていることについては深く同意するけれども、4人家族が一つの家に「パラサイト」する展開が「無駄がなく」「テンポがいい」という、けっこうみんな言う評価が、実はいちばん納得できなくて、あそこでわたしは笑えなかった。
「テンポがいい」は、言い換えれば「急ぎすぎ」だし、「無駄がない」は、「できすぎてる」ともとらえられる。特に、結核による喀血を、ピザのソースで偽装するあたりは、後半に「におい」が重要になってくることを考えると、そこで「におい」に鈍感なのは、ちょっとどうなんだろうと思う。血とソースではずいぶん匂いが違うはずなのである。
個人的には、前半部分のフリで笑えなかったために、後半のオチの衝撃も浅かったと思っている。
つまり、エモくなかったわけで、その意味で、『パラサイト』についてよく言われる「日本映画は韓国映画に後れを取ってしまった」みたいな感想には、とくに、そのあと岩井俊二の『ラストレター』を観たせいもあり、内心、首をひねっていた。『ラストレター』の松たか子の演じた「裕里」の、トリックスターとしてのおかしさにくらべると、『パラサイト』の前半部分は、やはり「べた」に感じてしまう。
いうまでもなく、この2作品をくらべる必然性はない。たまたま私が同時期にみて比べてしまったために、日本映画は韓国映画に全然遅れてしまったみたいな意見には、どうにも引っかかっちゃうってことをいいたいだけである。
しかし、今日、『エクストリーム・ジョブ』を観て、あらためて、韓国映画は進んでると、つくづく思わされた。
ちなみに、これもCJグループの作品で、カーチェイス、アクション、カメラアングル、ライティング、そういうベースになる部分の水準は確かにゆるぎない。しかし、それより何より、ギャグが最高。
シナリオも独創的。ネタバレにならないように発端だけを書くと、ろくな成果もあげられないまま、解散目前となった窓際の麻薬捜査班が、捲土重来を期して、麻薬密売組織の張り込みのため、彼らのアジトの目の前の店を買い取って、偽装でフライドチキン店をはじめたところ、捜査に支障をきたすほどの大繁盛してしまう。って、ここまででもそうとう面白いんだが、この後、さらにこっちの予想を超えていくところがすごかった。
今日は、寒の戻りの雨と、新型コロナウィルス騒ぎのために、客足は鈍かったのだけれども、客席から何度も笑いが響いた。日本人の観客って、おかしくてもあんまり声に出して笑わない印象があるのだけれど、ここまであからさまに笑い声が響いた映画は、最近の日本映画をふりかえると『カメラを止めるな!』くらいだろう。しかし、お金の掛け方がまるで違う。
笑いが国境を超えるのはすごく難しい。だから、「韓国映画はついにここまで来たか」と思うのは、『パラサイト』よりむしろ『エクストリーム・ジョブ』の方ですね。CJが『パラサイト』の一方で『エクストリーム・ジョブ』も作っているっていうのがすごいわけ。韓国で歴代興行収入NO.1を記録したのは『パラサイト』ではなく『エクストリーム・ジョブ』なんだ。
『カメラを止めるな!』のシナリオは負けてないと思うけど、あれは、上田慎一郎個人の力じゃないですか。それで、このクラスの日本映画を過去に求めると、川島雄三の『幕末太陽傳』までさかのぼると思った。
『幕末太陽傳』は、つまるところ落語なんだけど、あの品川遊郭を再現したセット、女優陣の着物のあでやかさ、江戸落語の世界を再現する、当時の映画スタッフのスキルの高さに舌を巻く。
『幕末太陽傳』は1957年、小津安二郎が『東京暮色』、黒澤明が『蜘蛛巣城』、日本映画の燦然たる時代に、今の韓国映画が肩を並べてるって気がしちゃいました。
しかし、ここまで25年間かかっている。イ・ミギョンというひとりの企業人の25年間のたゆまぬ努力がいま実を結んでいる。日本の映画界にこういう企業人がいたかな?。周防正行の『Shall We ダンス?』が全米でヒットしたとき、現地ではアカデミー賞確実と言われていたのに、なんと、日本アカデミーが推薦すらしなかった。
韓国の『パラサイト』とちがって、日本映画のパラサイトは、日本の映画作家たちに寄生している業界人ってことになるかな。
この先、すこしネタバレになる。『パラサイト』をまだ観ていない人は注意。
先ほどの、朝井リョウの『パラサイト』評は、週刊文春の書評欄だった。つづきがあって、紹介されていたのは
- 作者:ペク・セヒ
- 発売日: 2020/01/21
- メディア: 単行本(ソフトカバー)
という本。そして、石田衣良の
で、書評欄であるページにこの二冊とあえて『パラサイト』を比較してみる朝井リョウの視点は、わたしなりに解釈すると、ソン・ガンホの演じる父親が、もし、パラサイトであるとするならば、寄生している宿主であるはずの、社長を殺してしまうのは矛盾なのであるが、ソン・ガンホの演じる父親は、今、まさに死に瀕している人の悪臭に鼻をつまんでいる社長の、無意識の優越感が許せなかった。
自分の放っている悪臭は自分では分からない。誰も自分が臭いとは思っていない。他人が自分に接するとき、人としてではなく、臭いものとして扱われれば、怒りの発作に襲われて当然だ。
臭いものと臭くないものという予期せぬ落差が生じた瞬間、突発的に発生した位置エネルギーがナイフを振り下ろさせる。否定された人格が人格を回復しようとする。
この怒りは格差に対する怒りではない。貧しいものと豊かなものがいるのは仕方がない。そうではなくて、この怒りは、貧しいからと言って人格を否定する、その無自覚な差別に対する怒りなのである。
だから、じつは、そこには差別はない。あるのは無自覚さだけなのである。匂いという要素がはいってこなければ、バカな金持ちの家にまんまと寄生している家族の方が一枚上手だったはずである。しかし、ソン・ガンホの演じる父親は、自分では感じない匂いに格差を観てしまった。
このように、格差は非対称的にあらわれる。石田衣良の『清く、貧しく、美しく』は、非正規雇用の男女の、男のほうだけ正規雇用になり、しだいにすれ違っていく話だそうだ。男は何も変わっていないつもりなのに、女の目には格差の壁が見え始める。
見える側にとっては「ある」が、見えない側にとっては「ない」。
ここで面白いのは『死にたいけれど、トッポギは食べたい』で、これは、もともとは自費出版で、うつ病の作者のカウンセリングの記録だそうなのだ。「死にたい」のも「トッポギが食べたい」のも同じひとりのひとの心で、どちらもホントなのだ。タイトルがすごくうまい。
朝井リョウが特に印象的に感じたのは「実は、絶望のほうが心地いい」という記述だったそうだ。絶望は、結局、もっとも安直な希望にすぎない。
『パラサイト』が格差を描いているというのは、やはり嘘だと思う。そうではなくて、格差という幻想が、ランプの巨人のように立ち上る瞬間を描いているのではないかと思う。