『ハニーランド  永遠の谷』

 『ハニーランド』は、事前に何の情報もなく観終えたらドキュメンタリーとは思えないほどだ。というか、ドキュメンタリーっぽく始まって、イソップ物語みたいに終わる。ドキュメンタリーとして観始めても、フィクションとして観始めても、なんかもやもやして終わる。

 そういうもやもやについては、以下のニューズウイーク誌のこの映画の紹介記事を読むと、そのいきさつは分かるが、「にしても」という思いは残る。



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 そもそもこの監督のふたりはマケドニアの川に関するドキュメンタリーを撮るつもりでリサーチしていたそうなのだ。
 そこへ、スイスのなんとか庁から養蜂と蜜蜂についての映画を撮らないかという話が舞い込む。たまたまマケドニアに古くからの自然養蜂を営んでいる女性がいるって情報を得て、彼らはこの映画を撮り始めたという。
 まさに、映画はそういう始まり方をする。ところが途中で、子だくさんの遊牧民が、取材対象の女性の隣に越してくる、というのは、その女性ハティツェの住む村は過疎化が進み、ハティツェと彼女の老母以外誰も住んでいない、廃村になっていたからなのだけれど、その遊牧民の家長フセインがハティツェを真似て、養蜂に手を出してしまってから、マケドニアの川も、古来の自然養蜂も吹っ飛んでしまい、めちゃくちゃだけが残る。
 いちばんもやもやする、っていうか、心配になるのは、遊牧民一家がとっとと去っていったあと、ハティツェの生活が回復したのかどうかで、元に戻りましたってとこまでちゃんと描き切って終わってほしかった。もし元に戻ったとすればだけれども。匂わせめいたオープンエンドいらないから。
 この映画は、色んな映画祭で受賞を重ね、米アカデミー賞でも、ドキュメンタリーとして初めて、国際映画賞にノミネートされているそうなのだ。
 しかし、遊牧民とカメラと、意味としては同じなんじゃないのかって思ってしまう。取材対象との信頼感ってことが、上のニューズウイークの記事にも書いてあるのだが、「信頼感」といえば聞こえはいいが、オープンな性格につけこんだといっても実態は大して変わらない。その意味でも、遊牧民がやったこととこの映画がやったことの違いがよくわからなくなる。
 たしかに、たまたま観光地でカメラを構えていたら、殺人現場をとらえてしまったとして、それをテレビ局に売るカメラマンに、何か罪があるかと言われれば困るのだけれど、そしてその写真が、賞のひとつも受賞したとして、それがけしからんとも思わないけれども、なんだかなぁっていうそういう気分が残る。
 咲きほこる山桜を撮ろうとしたら、電信柱の列が写りこんだみたいな不快感に似ている。いちばんいいアングルで入り込む電信柱に腹をたてても、電気がなければデジカメの充電もできないってアイロニーは滑稽でしかない。
 北マケドニアの自然養蜂家を訪ねてみても、結局、資本主義の戯画を見せられるっていうことに、居心地の良さを感じる人はいないだろう。やれやれまたこれなの?。これじゃない世界がどこかにないの?と聞きたくなる。
 

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