ジャージの二人

ジャージの二人 [DVD]

ジャージの二人 [DVD]

映画館で見逃したのをDVDで観た。
中村義洋というひとは、活字の世界を映像の世界へ、位相を変換する、そのこと自体に醍醐味を見出しているのではないかという気がしてきた。
原作の長嶋有は『サイドカーに犬』、『猛スピードで母は』の人。
この映画の見どころは、実は、水野美紀が演じる主人公の妻にあると思ってみると、おおげさにいえば、世界を囲んでいる柵とか境目みたいなものを少し広げて、他者を受け入れてみようとする決意みたいな、そして、それに伴う痛みにたえてみようという努力みたいなものを感ずるので、その空気感は、多分、長嶋有のほかの作品とも共通しているのだろうという予測を思い描いてみた。
堺雅人が演じる、失業して小説を書き始めたばかりという主人公は、一方で、公然と妻に浮気されている。
この妻が水野美紀なわけだけれど、その浮気がユニークで、
「子どもがほしいの」
とかいうわけである。
「そういうこと突然言われても・・・えっ!あいつの?」
とかいう会話が交わされるような浮気で、不倫という言葉にともなう淫靡さはどこにもない。
はたしてこれで夫婦として成立するのだろうかと観客としてはいぶかるのであるが、もちろん、主人公夫婦もそこに疑問を感じていないはずはない。
堺雅人水野美紀であるから、美男美女の夫婦なのだけれど、この間にいる、古い言葉でいう「間男」が、携帯の待ち受け画面でチラッと見えるだけなのだけれど、絶妙な‘どうってことなさ’で、いい男でもなく、かといってブサイクでもなく、人間的な魅力もなく、色気もなく、じつにうすっぺらで、あの待ち受け画面のワンショットには、中村義洋監督の力量を感じてしまう。
で、この21世紀の寝取られ男は、志賀直哉の『暗夜行路』や、太宰治の『人間失格』みたいに、許すべきか許さざるべきかで悩みをかかえてみたり、罪の対義語は何かとかいう啓示を得たりすることもなく、鮎川誠が演じるグラビアカメラマンの父親(母親とは離婚して別の家庭を持っている)と、古い山荘でジャージを着て短い夏休みを過ごす。
しかし、どうなんだろうね。同時代人として、この主人公が『暗夜行路』や『人間失格』の主人公より、その誠実さや真摯さにおいて劣っているとは私には思えない。
夫婦が、自由で対等でお互いに縛りあわず、尊重しあって、しかも、愛し合っていけるはずだという理想を、二人が暗黙のうちに共有しているとき、個人が耐えなければならない痛みは、きっとこういうものであり、それは、言葉にできないか、するわけにはいかないものだという気がする。
愛は、たとえば‘愛’と名付けることだけで変質してしまうほど、壊れやすいものだし、ましてや他人が口をはさむことなどできない極私的なものだ。そのことだけは、どんなに時代が変わってもゆるぎないことだと私は思う。
この「ジャージの二人」が、今という時代の『暗夜行路』なのかなぁと思うと、私は愉快な気がする。
自由も秩序もともに、たぶん幻想に過ぎないと思うけれど、私は、秩序という幻想より、自由という幻想を好みたいと思う。