堀江貴文のブログ、郷原信郎の記事

いまさらでなんなんだけど先月19日の堀江貴文のブログに面白い記事がある。

かの、有名なライブドア事件のフライング報道をしたNHK社会部が私に取材依頼をしてきたので、受けますが、条件があります。とカウンターをだしてみた。私のほうでも映像を撮らせていただきYouTubeにアップしてもよろしいですか?という条件だった。そしたら、やっぱりいいです。と断ってきた。

なにか問題でもあったのだろうか?私がインタビューの模様をYouTubeにアップしたら不都合でも?ないよなあ。。不可解だよなあ。

これをうけて、「そういえば・・・」というわけでもあろうか、西村博之が「SPA!」のコラムに

5年ぐらい前、NHKがネットに関する番組で、2ちゃんねるに関するコーナーを作っていたことがあり、オフ会みたいなものにNHKの取材陣が来たわけです。NHKとしては、暗い感じの生真面目な演出をしたかったと思うのですが、そのときのおいらは、お酒が入っていたからか顔が真っ赤になり、知人女性のスカートを穿くというNHKの構想とは真逆の状況でインタビューを受けたのですね。すると、サクッとカットされてしまったのです。

テレビはまず「撮りたい映像ありき」で、そこに人を当てはめる形でしか出演させない。

印象をテレビ局側にコントロールされても、なぜか出演者はなかなか文句を言いづらいというのが、映像の世界にはあったりします。

と書いているけど、実際には、テレビ局が勝手に作った印象をくつがえすのはなかなか難しいのではないかと思う。文句を言ったくらいではどうしようもないだろう。

この古い記事を思い出したのは、6月17日(今日)付けで「日経ビジネスonLINE」に寄稿された郷原信郎の記事を読んだためである。
http://business.nikkeibp.co.jp/article/topics/20090616/197741/?ST=print
郷原信郎は「政治資金問題第三者委員会」の一員として、西松事件についての報告書を取りまとめたのだが、これについてのマスコミの「非難」には私も呆れている。
特に、
小沢一郎の説明責任」
という言葉が出るたびに、まったくいらいらさせられる。そもそもこの第三者委員会を設置したこと自体が「説明」ではなくて何なのか。
少なくとも私は、この記事を読んでみて、第三者委員会の報告書は、問題の本質を掘り下げて分析しているし、非常に重要な指摘がされていると思った。
すくなくとも
西松建設が『新政治問題研究会』と称する団体を設立した真の意図は、橋本龍太郎氏の資金管理団体と同一の名称の団体を千代田区内に設立することで、区までの所在地と団体の名称しか記載されない官報の上で自民党議員への寄附の具体的内容が明らかにならないようにすること、つまり自民党議員側への寄附について迷彩を施すことにあったのではないか」
などという事実関係の情報は、マスコミはきちんと国民に報道すべきではなかったのだろうか。
マスコミが報告書の内容には触れずこれを非難するのはなぜだろうか。
報道のあり方が批判されていることも気に食わないだろうが、たぶん、それよりも大きいのは、自分たちが「撮りたいイメージ」と異なっていることだろう。
口では「説明責任」云々をいっているマスコミだが、実際にはその「説明」に耳を傾ける気などさらさらない。
マスコミが(たとえば辛坊治郎が)「説明責任を果たせ」といっている意味は、「とにかく謝れ」という意味なのである。小沢一郎がマイクの列を前に謝っている映像がほしいのであり、それ以上でもそれ以下でもない。テレビマンの生理は、その映像さえ撮れれば、それだけでカタルシスを覚えるのだろう。
そして、すぐに興味はほかに移っていく。たとえば、「小向美奈子のストリップ行くぞ!」というわけである。
週刊プレイボーイのコラムに、佐藤優はこう書いている。

筆者は「どうしてテレビに出ないのですか」という質問をよく受ける。そういう時には、「7年前、鈴木宗男疑惑の時に一生分テレビに出たのでもういいです」と答えることにしている。

これはかなり正直な気持ちだ。テレビは映像と音声、そして文字が同時に流れてくる。頭で理解する前に印象が焼き付いてしまう。いったん「悪いやつだ」というイメージがテレビで定着すると、解消することはまずできない。

それから、テレビで発言できる時間は20秒とか30秒で非常に短い。北方領土問題や北朝鮮の核実験などについて、こんなに短い時間で説明する能力が筆者には備わっていない。それだからテレビには出ないことにしている。

フレーミングの問題というのがある。
つまり、どんなニュースの取材でも、女子アナのパンチラしか狙わない意識で臨みうるカメラマンもいるわけである。
それと同じことがマスコミ全体にもいえるだろう。問題を深層や構造で捉えようとしているかあやしいものである。
たとえば「かんぽの宿」問題にしても、問題の構造はグリーンピアと全く同じだったのに、ただそこに鳩山邦夫という奇妙なキャラクターが絡み付いてきたことで、マスコミの報道ががらりと変わった。
問題を構造的に捉えていれば、旧郵政官僚の不正の責任を、郵政民営化にかぶせようとする、鳩山邦夫の欺瞞は明らかであったはずだ。
鳩山邦夫の辞任について、田原総一郎週刊朝日のコラムでこう書いている。

 要するに、郵政民営化推進派と反対派の露骨な戦いだったのである。

誰が見たってそれ以外ではありえない。にもかかわらず、鳩山邦夫を正義の味方に祭り上げることがテレビのフレーミングであるとしたら、(そして現にそうなのだけれど)そのフレームの外にこぼれ落ちているものが重要すぎる。言い方を変えれば、女子アナのパンチラしか映っていない報道番組は報道の態をなしていない。
同じコラムにはオリックスの宮内氏の
「白紙になってほっとした。」
という言葉が紹介されている。
すくなくとも、田原総一郎は二次情報を言わないことをポリシーとしている。
それとは全く違うポリシーで成り立っているこのブログでも、推測ながら「おそらくほっとしているだろう」と書いたはずだ。誰が考えたって損な買い物である。
件の堀江貴文のブログにはこんな記事もあった。

かんぽの宿が不当に安く売却されているわけではないこと、なんで理解できんのかなあ・・・。買った側にある程度の儲けが出ないことには売れないのは商売の基本だし。入札だって、アドバイザリーだってちゃんと付いてんだし。

視点を変えれば、「2400億円かけて造ったものが売るときは109億円にしかならないのがおかしい」という感じ方自体が、鳩山邦夫がいかにお坊ちゃま育ちであるかを示しているのだろう。たぶん彼は、自分の乗っている車を中古車に売った経験さえないのだろうから。