「ジュリー&ジュリア」

knockeye2010-01-23

こないだテレビで放映されていたが、「プラダを着た悪魔」を見逃したのを残念に思っていた。
なので先月、同じくメリル・ストリープ主演の「ジュリー&ジュリア」が公開された時も、頭の片隅には引っかかっていたのだけれど、「プラダを着た悪魔」とは180度違うみたいでちょっと躊躇していた。
(ちなみにテレビの「プラダを着た悪魔」は、メリル・ストリープの吹き替えで夏木マリがいい味を出していたと思う。)
でも、遅ればせながら今日観にいったのは、監督が「めぐり逢えたら」のノーラ・エフロンだと気がついたから。そうと知ってりゃ、もっと早く観にいったはずだった。
ニコール・キッドマン主演の「奥様は魔女」のDVDには、ノーラ・エフロンの解説付きバージョンというのが一緒に収録されている。私としては、一度本編を観た後、ノーラ・エフロンの解説つきで、もういちど見ることをオススメしたい。三谷幸喜監督の「マジックアワー」という言葉の出典はたぶんここにあるはずだと思っている。
「映画監督というのは映画撮影というパーティーのホストのようなものだ」という言葉が印象に残っている。
彼女の映画にはその言葉どおりのこまやかな気遣いがすみずみまでいきわたっている。今回の映画でいえば、ジュリーのキッチンのこまごまとした様子、料理道具の数々は言うに及ばず、食材の置かれ方とか、適当に乱雑で適当に片付いているその感じが絶妙で、実際に日々料理している女性のキッチンの感じがすっごくリアルに描写されていると思う。
そういう小道具や舞台立てもそうだが、文献にも徹底的に目を通していることがわかるはずだ。
今回の映画は、ジュリア・チャイルドという、たぶんアメリカではそれこそ「奥様は魔女」と同じくらい有名なのだろう料理番組のホストだったフランス料理研究家の、524のレシピを365日で再現することに挑戦した、ジュリー・パウエルという女性のブログ本が原作なのだけれど、おそらく、その本、そしてそのもとになったジュリア・チャイルドの著作、および書簡、そして、彼女の出演したテレビ番組、そして、彼女をパロったサタディー・ナイト・ライブの映像まで徹底して目を通して映画に生かしている。
この姿勢は「奥様は魔女」のときにもはっきりと感じられた。いわば料理の下ごしらえ、パーティの準備の部分にぬかりがない。撮影をパーティーに譬えるのがよくわかる。彼女の映画を見ていると、役者は彼女のパーティーのゲストみたいに幸福に見える。
しかし、それだけ文献を掘り下げているので、現実に宿っている苦さも決して取りこぼしてはいない。
ジュリア・チャイルドが外交官の妻としてて奮闘している時代、アメリカに吹き荒れていたマッカーシズムとか。もちろん、ジュリア自身の個人的な問題も。
「ユー・ガット・メール」でもそうだったけれど、メールとかブログとかそういうものがどのような存在として現代人の生活に入り込んできているかということを、ノーラ・エフロンという監督は正確に理解する人だと思う。
この映画が成立するのは、ポスト9.11のN.Y.で働くジュリー・パウエルが、ジュリア・チャイルドのレシピをブログで再現してみようと思いつくそのリアリティーに説得力があるからこそである。
やがて、齢90になるジュリア・チャイルド自身とジュリーの人生がかすかに交錯しそうになるが、そのほろ苦さは、ジュリーとジュリアの二つの時代を丹念に描いていればこその味わいだろう。それは‘味わい’というしかない。それ以外の言葉が可能だろうか、また、必要だろうか?
ジュリーとジュリア、50年を隔てた二人の女性がキッチンで出会う。人は食べて生きていく。その料理がおいしければそれだけで少し勇気をもらえる。
ところで、私はノーラ・エフロンの役者の選び方が好き。メグ・ライアンとトム・ハンクスのコンビもそうだし、「奥様は魔女」の二コール・キッドマンとウィル・フェレルもそう。
今回、ジュリーを演じたエイミー・アダムスはメグ・ライアン、ニコール・キッドマンと共通する何かを感じさせるとおもうが、特に私が興味深く思うのはノーラ・エフロンの男優の好みだ。スタンリー・トゥッチとクリス・メッシーナを見ていてなるほどなと思うのは、‘誠実さ’。あいまいな言い方だけれど、日本で言えば三浦友和とか風間杜夫とかかな。派手なところはないけれど、男としてこうありたいなと思うタイプである。
蛇足とはおもうが付記しておくと、この映画が描いているのはジュリア・チャイルドという実在の女性の生涯である。
その底抜けの笑顔の裏側に秘められた、悲しみと努力に寄せられたノーラ・エフロンの尊敬と愛情の細やかさを見逃さないでほしいと思う。