「マーガレット・サッチャー」

knockeye2012-03-17

 まだ映画制作がはじまったばかりのころ、サッチャーの夫デニス役のジム・ブロードベントと昼食をとりながら、メリル・ストリープが突如マーガレット・サッチャーのしゃべり方をしてみせた。‘ぞっとするほど的確だった’と、ジム・ブロードベントは語っている。
 メリル・ストリープは、ボイス・コーチをつけず、サッチャーのインタビューをひたすら聴き、初期の声と、党首になって威厳が出て来る声を習得したそうだ。
 ‘イギリスでは話し方で階級がわかる。’と、新井潤美は書いている。

アッパー・クラスやアッパー・ミドル・クラスの人々は‘Received Pronouciation’(略してRP)と呼ばれる、いわゆる標準英語を話し、ロウワー・ミドル・クラス、ワーキング・クラスはそれぞれの住む土地の訛りがある。

 メリル・ストリープはこのふたつをわがものにしただけでなく、そこにサッチャーの人格さえ写しとってみせて、ジム・ブロードベントを驚かせたのである。
 映画の中で、サッチャーが医者に語る印象的な台詞
‘考えはやがて言葉になる。言葉は行動を生み、行動はやがて習慣になる。習慣はやがてあなたの人格になり、人格はあなたの宿命になる。わたしたちの考えること、それがわたしたちを作る’
は、メリル・ストリープという女優のあり方を示しているようにさえ思える。
 階段のホールから、メリル・ストリープ演じるマーガレット・サッチャーが姿を消したあと、わたしは先の台詞のあとを続けてみたくなった。‘そして、宿命をつらぬいたものに威厳がやどる’と。
 パンフレットのインタビューで、メリル・ストリープがこの映画の本質をみごとに語っている。‘充実した人生を送ることはどういうことか、その意味を抽出し、それが沈殿していく様を観察した’

Q.この作品に出演できて最もよかったことは何ですか?
それは、ひとりの人物の人生をまるごと見ることができたことですね。この年齢になると、自分の人生を最初から振り返ってみることが実際にあるんです。その厖大さに圧倒されることもあります。当時は重大だと思っていた出来事がぎっしりつまっているから。その一方で、重要なのはこの日、この瞬間だと気付くんです。今ここにいることがね。
(略)
若いころには皆「自分は絶対こうならない」と言います。でも皆、同じ本の中を生きているようなものです。必ず始まりがあって終わりがあるんです。映画全体をその瞬間、つまり終わりに向けて作っていくというのは非常に野心的でめずらしい試みです。通常は頂点に向かって盛り上げていくものですからね。
 わたしたちはとてつもなく規模が大きく、充実した人生を送ることとはどういうことか、その意味を抽出し、それが沈殿していく様を観察したのです。とても詩的だと思いませんか?

 また、監督のフィリダ・ロイドは‘これは愛する者を手放す物語なのです’と語っている。
 デニスの亡霊が去っていくシーンについて、意味をとりかねていた自分がバカみたいだ。
 人は愛し、やがてそれを失う。それでも生きていく。‘あなたなしでは生きていけない’とわめいている愛に真実があるとは限らない。
 誰でも克服しなければならない過去を引き摺って生きている。サッチャーほど歴史に名を残す巨人であっても、やはり、今、生きているこの瞬間がすべてなのだ。