「ジンジャーの朝」

knockeye2013-09-08

 この週末、3本の映画を観たが、これがダントツ。すばらしい。ここ数年のイギリス映画のいきおいはすごい。できれば邦題も原題の「ジンジャー&ローザ」のままにしておいてほしかった(ローザの立場あらへんがな)。
 映画はヒロシマのキノコ雲で始まる。その年に、主人公の少女ふたりが生まれる。
 『リヴァイアサン』を書いたトマス・ホッブズ無敵艦隊の襲来と出生の日をともにするが、イギリスにいて「恐怖とともに生まれ」るのは、彼に限らない。
 監督のサリー・ポッターは、
「わたしたちの生活に根ざした細部が、世界の出来事と深く結びついていることを、ありのままに、シンプルな物語として伝えたかった。」
「わたしたちは世界の一部で、世界はわたしたちの一部」というアイデアを、ふたりの少女の視点で追求した。
 「どんなに大変でも、どんなに自分を傷つける事でも、自由であり、カッコいいことにこだわった、60年代の気分が痛いくらい伝わってくる!」
という加藤登紀子のコメントには、すこしは彼女自身の追想のフィルターがかかっていると思うが、1960年代のあのころ、イギリスでも、日本でも、アメリカでも、そのころ、西側といわれていた国の若者は,たしかに、世界を共有していた。60年代の若者といえば、ロンドンでも、パリでも、ベルリンでも,東京でも、西側のどの国の,どの町を背景にしても、類型的な姿が思い浮かぶ。
 ジーパンにローゲージのタートルネック。この映画のジンジャーとローザだけでなく、ジンジャーの父親、ローランドも、そんな格好をしている。主人公の親の世代の男性の中で、そんな格好をしているのはローランドだけ。彼は、第二次大戦中、兵役拒否で服役していて、今は、思想家として著作活動をしている。ジンジャーとローザが反核運動の集会にでかけると、そこのリーダーはローランドの名前を知っている。
 つまり、ジンジャーにとって、ローランドは父親でありながら、世代を共有している。ローランドも、自分を‘Dad’と呼ばせない。ジンジャーもローザも彼をファーストネームで呼ぶのだ。ジンジャーとローランドがキリスト教について話すシーンがある。私は、ジョン・レノンのいわゆる「キリスト発言」事件を思い出した。あれは66年だ。
キリスト教はいずれ衰退して駄目になるだろう。これはあきらかなことで、僕の言うことは間違っていない。歴史が証明してくれるはずだ。ビートルズは今やイエス・キリストよりも人気がある。キリスト教とロックとどちらが先に駄目になるか何とも言えないけどね。」
 この発言がアメリカではヒステリックな反応を引き起こすのだが、イギリスでは誰も気に留めなかった。社会の成熟度を思わせる事件だけれど、ジョン・レノンと,この映画のローランドに共通しているのは、父性の喪失だろう。親の世代が犯した巨大な過ちのせいで、この時代の若者は尊厳としての父性を失っていた。いいかえれば、この時代の男性は、自分たちの世代で、ゼロからそれを築き上げなければならなかった。それを?。権威を、父性を、社会を、信頼を、正義を、ありとあらゆる価値を。
 だから、ジョン・レノンが言ったことは正しかった。このとき、キリストは死んでいた。少なくとも寝ていた。ビートルズの存在の方がその後の世界にとって、はるかに決定的だと分からないのは滑稽だ。スティーブ・ジヨブズが自社に「Apple」と名付け、iTuneでのビートルズの配信を重大な発表と言ったのは、きまぐれではないのだ。その世代の若者の理想が,今の世界を作っている。
 しかし、この映画の価値は、そうした社会の苦悩が、結局、ひとりの少女の成長と入れ子なのだというアイデアを,実現したシナリオのすばらしさだ。だれでも、自分が「世界の一部」であると思う一方で、「世界が自分の一部」であることは忘れがちだ。わたしとあなたが世界の一部であるとおなじように、世界もまた、わたしたちの一部だからこそ、わたしとあなたは他者でありうる。
 他者の発見は、こうして自己と世界の発見だが、この知覚は、同時に孤独の本質でもある。夏目漱石の『こころ』について書いた翌日に,これを書いているのは、全くの偶然だが、私個人にとっては、ちょっとした意味のある偶然かもしれない。