シャルリー・エブドとNHK

knockeye2015-01-08

 東北を津波が襲ったときに、たしかアメリカのコメディアンだったと思うが、「日本はハイテクがすごくて、わざわざ出掛けなくてもビーチの方から家に来てくれるらしい。」というジョークを飛ばして、大顰蹙を買ったことがあった。
 しかし、正直言うけど、わたしはこのジョークはうまいと思ったし、ちょっと笑った。事態の深刻さと関わりなく、笑いは常に必要だと私は思っている。ジョークを解さない奴はたいがい仕事もできない。というのは、ジョークを解さないということは、コミュニケーション能力がない、それはつまり、情報処理能力が低いので、そういう人間の仕事は、壊れた機械みたいに同じ作業を反復しているだけである場合が多い。
 フランスで「シャルリー・エブド」という、週刊誌の編集部が、イスラム原理主義者の襲撃を受けて12人が亡くなったそうなのだ。イスラム教を風刺する漫画が原因だったらしい。その一報を受けて、あちこちの報道関係から、「シャルリー・エブド」に支持表明するコメントが相次いでいるのだけれど、折しも、というか、奇しくも、というか、日本のNHKという放送局は、爆笑問題というコメディアンが政治家を風刺するネタを、放送前にすべて排除したらしい。
 世界中で、イスラム教徒からさえも「シャルリー・エブドを支持する」という表明が出されているときに、NHKという報道機関は、誰に言われるでなく、率先して検閲行為をしている。この国のマスコミは死んでる。
 政治とマスコミの関係を考えるとき、他の国ではたしかに、政治がマスコミに介入することに警戒しなければならない。しかし、明治維新で、官僚が政治に先行しために、政治が権力として比較的に弱い日本では、許認可権限を通じて、官僚に牛耳られているマスコミの方が、政治より権力が強い。このために、日本では、マスコミが政治に介入することを監視しなければならないという、グロテスクな状況が生まれている。このねじれがなかなか理解されないために、朝日新聞の数々の捏造をめぐって、ピントの外れた批判が起こるのだと思う。
 たぶん、ニューヨークあたりでは、東洋の独裁者が新聞報道に介入していると思っているのだ。だから、アメリカ在住とかの、いわゆる‘リベラル’を気取った連中が、そういう海外の報道の口まねをして、ファシズムがどうの、民主主義がどうのといっても、日本の大衆には響かない。本人は民主主義のつもりだろうが、そういうのはただの教条主義という。状況に対する理解なしで、架空の図式を押しつけている。
 つまり、官僚という権力の暴走があり、これを監視するシステムがなく、「権力の監視」を装いながら、その実「権力の走狗」であるにすぎないマスコミがあり、そして、それを批判するシステムもない。つまり、日本には民主主義がない。
 それなのに、‘民主主義を守れ’とかほざく‘マスコミの手駒」としての‘リベラル文化人’が民主主義者を名乗っていて、彼らに反対すると、ファシスト呼ばわりされる。こういう状況の戯画としてヘイトスピーチなどが起こるのだろう。
 国民の同意を形成するシステムとしての民主主義は、政治にも報道にも存在しない。ないものをあるかのようにふるまっているので、朝日新聞慰安婦キャンペーンのようなグロテスクな状況が生まれるのだと思う。見た目に民主主義的に見えても、嘘は嘘でしかない。民主主義を装っている連中がもっとも民主主義から遠い、というこのグロテスクな状況がつまり日本という状況なんだと思う。