「バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)

knockeye2015-04-11

 「バードマンあるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)」は、なにせあの「アメリカン・スナイパー」をおさえてアカデミー賞を獲得した作品なわけだから・・・というわけでもなかったけど、予告編が面白そうな匂いぷんぷんだったし。
 いちばんびっくりしたのは、レイモンド・カーヴァーの「愛について語るときに我々の語ること」をモチーフにしている映画だったこと。レイモンド・カーヴァーは、村上春樹が個人で全訳してる、あのレイモンド・カーヴァーです、もちろん。そういうこととは思ってなかったの。予備知識なしで観にいくとこういうことになるから面白い。
 それで、後から気がついてみると、アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥというこの監督の作品は「バベル」も「BIUTIFUL」も観てたんだった。「あぁ、あの監督かよ」って感じ。「バベル」は菊地凛子がハリウッドデビューしたことでも憶えている人が多いと思う、役所広司ブラッド・ピットの、なかなか複雑なプロットの映画だったけど、やっぱり、東京が東京らしくなく、日本人が日本人らしくなく感じられたのは、私が日本人だからなのかもしれないのだけれど、ちょっと「才走ってる」かなという印象を受けた。
 でも、そのあとの「BIUTIFUL」の方は、あれも不思議な映画だったけど、足腰がしっかりしてきて、いい感じだった。だいぶ前の映画だと思うけど、いまでも、ハビエル・バルデムがだんだん憔悴していく感じが思い出せる。最後、ベビーシッターが帰ってきたのか・・・みたいなシーンとか、いつの間にか引き込まれていた。
 そうやってふりかえってみると、この「バードマンあるいは(無知のもたらす予期せぬ奇跡)」は、納得の進化だわ。余裕を持って遊んでいる。
 余談に余談を重ねるけれど、それにしても「バードマン」って、むかし「バットマン」を演じていたマイケル・キートンだからなのかなと思ったけど、監督がアレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥだとわかると、バードマンの造形とか、その手の異形のヒーローのとらえ方が、やっぱり、メキシコ人のそれだと思えてくる。
 「パシフィック・リム」を監督したギレルモ・デル・トロもメキシコ人なんだけれど、あの人は日本の「怪獣」が大好きで、インタビューで「日本では、善と悪とか、神と悪魔の二元論ではなく、怪獣が‘愛されている’」みたいなことを語っていて、そのあたりの感覚が、たとえば、覆面レスラーが神父だったりする、メキシコの多文化的な背景を土壌にしているのかなと思ったりした。
 バードマンとマイケル・キートンが象徴する、ハリウッドとアメコミの大衆的な文化と、エドワード・ノートンレイモンド・カーヴァーが象徴するニューヨークとブロードウェーの演劇の文化を、この映画は対立させながら、見事に観客を翻弄していく。
 亡くなった伊丹十三監督が「映画は価値観の対立を描くものだ」みたいなことを言っていたと記憶しているけれど、イニャリトゥ監督が、映画と演劇の間に、その対立項を見つけたセンスが、たしかに今日的だと思う。
 というのは、予告編にも使われている、マイケル・キートンが、北野武もかくやと思わせる、白ブリーフいっちょでねり歩くシーンだけれど、もし、ああいうのが目の前で起これば、今の世界では、洋の東西を問わず、格好の「投稿ネタ」なわけじゃないですか?。
 今って言う時代は、なぜか誰もが「ネタ」を探していて、まるで批評家みたいなことを言いたいために、いつも批評家の発想で世の中を見回している。そして、また、誰もが、何かの役を演じている。
 映画の中で、酔っ払いが、「マクベス」の有名な台詞(・・・sound and fury・・・ていうあれ)を叫んでいる。それが、そのシーンのマイケル・キートン演じる老優リーガンの心情を映し出している、まさにシェークスピア的なシーンなんだけれど、ところが、その酔っ払いは、‘バードマン’リーガンを見つけると、「ちょっとやりすぎたかな?演技の幅を見せようと思って」と‘楽屋裏’をばらしてしまう(しかもその台詞は冒頭にも一度出てくる)。
 この映画は、そんな具合に、芝居と実人生、虚構と真実、妄想と現実、の混濁が、とても巧妙に魅力的に描かれている。結局、観客の私たちだって、そこで何を観ているのか、と問われたら、そう簡単には答えられない。
 全編ワンショットで撮ったかのような編集も話題になっているが、それも舞台がテーマだからだろう。
 それから、音楽がほぼ一貫してドラムなんだ。あれがかっこいい。
 それに、キャスティングも渋いところを揃えている。「愛する人」「マルホランド・ドライブ」のナオミ・ワッツでしょう。それから、「ハングオーバー」のザック・ガリフィナーキスが出てるのがうれしい。毒舌は、最後にちらっとだけだったけど。