カンヌ映画祭で脚本賞を獲得した『ドライブ・マイ・カー』の同名の原作は、『女のいない男たち』という、村上春樹の短編集の巻頭をかざる小説だ。
初出は、文藝春秋2013年12月号で、当時、文藝春秋を買ったり買わなかったりしていた私は、この短編集所収のうちいくつかは読んだはずで、実を言うと、私の記憶では、文藝春秋掲載のものについては全部読んだつもりだった。
ただ、「納屋を焼く」のような若い頃の短編のような強い印象は残らなかった。『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』、『恋しくて』に続き、このシリーズもモヤモヤした記憶しかない。
なので、あの中の短編で映画化されて、しかもカンヌで脚本賞を獲るほどのものがあったろうかと、思いめぐらしてみてもとりとめないばかりで、かえってざわつく感じがあって興味がそそられた。
映画は、チェーホフの「ワーニャ伯父さん」が隠れた原作だと言いたいくらい。「ワーニャ伯父さん」の台詞を吹き込んだカセットテープは、確かに原作小説にも出て来る。しかし、映画ほど重要なアイテムにはなっていない。考えてみれば、村上春樹は、レイモンド・カーヴァーの翻訳家でもあるわけで、チェーホフの戯曲が、ここで重要な振る舞いをするのは、むしろふさわしいことだったと思える。
映画を観た後、村上春樹の原作を買ってまとめて読み直したが、「ドライブ・マイ・カー」だけでなく、『女のいない男たち』全体が、原作となっていると言う方がむしろ正しいようだ。所収の「シェエラザード」、「木野」のエピソードが上手くレイヤードされているだけでなく、全体の乾いた雰囲気や通底するテーマを大胆に解釈して再構築している。
短編集のまえがきによると、この短編集は、はじめから、こうした短編集として構想されたそうだ。文藝春秋掲載当時、つまんで読んでいたのと違って、まとめて読んでみると、これまでの村上春樹にはない、癒されない渇きのようなものを感じた。
それは、でも、映画を観たからということも言える。映画が原作小説にまた別の陰影を与えている。
佐藤泰志の「きみの鳥はうたえる」を映画化した三宅唱監督が、かなり大胆に原作を書き換えていたのにも感銘を覚えたが、今回の濱口竜介監督の読みの深さには感動した。
もしかしたら、『女のいない男たち』というこの短編集は、村上春樹自身の手でこんな長編に書きかえられていた可能性があったのではないかとさえ思えたくらい。
ベストセラーの小説の映画化で失望させられた経験は数知れないが、この映画みたいに地味めな原作を咀嚼して映画の文体に仕立て直す、こういうのを映画化と言いたい。
先述の『きみの鳥はうたえる』もそうだけど、『美しい星』の吉田大八、『決算!忠臣蔵』の中村義洋、『転々』の三木聡とか。
『ドライブ・マイ・カー』の場合、加えて「ワーニャ伯父さん」のメタ構造もまたすごく効果をあげている。
北海道での西島秀俊と三浦透子の会話が、チェーホフのテキストと響き合っているからこそ、あれは成立するんだと思う。
ところどころに挿みこまれるエチュードも魅力的。役者さんたちってすごいなと思ったのは、上手くやるのはもちろんなんだけど、上手くなくもやれちゃうのがすごいと思った。
村上春樹がこの大胆な再構築についてどう思ってるか聞いてみたい。村上春樹自身にとっても刺激になる気がする。