帰省中の小ネタ

knockeye2015-08-15

 お盆に帰省したら、両親が又吉直樹の『火花』を買ってた。
 週刊spa!の対談で、坪内祐三が「『火花』はりっぱに文学なんだけど、これで文学は終わった」とか言ってた、その感じを実感。

 この時期、なぜかMLBの中継で事件に当たる。今年はいうまでもなく、岩隈のノーヒット・ノーラン。岩隈は「クマ」って愛称みたいで、ファンはクマのかぶりものみたいの頭にのせてた。野茂以来、日本人としてはふたりめ。両方とも近鉄バッファローズ出身だけど、とくに関係ないか。

 兵庫県立美術館で、船越桂の展覧会。先日、「蟻の兵隊」の記事で、船越桂に思い及んだのは、この連想もあった。ところで、今、読みかけの本が『磯崎新藤森照信の茶席建築談義』なんだけど、その最初のところで、「美」と「崇高性」の話がでてくる。パエストゥムというところにある古代ギリシャの神殿遺跡について話しているところ。
 その神殿は、マラリアで町が全滅して千年放置されたために古代遺跡がそのまま残った。それが18世紀に発見され、磯崎新の言葉を借りると、ヨーロッパは、ルネッサンス以来の「美」にかわる「崇高性」という概念を手に入れる。磯崎新は、そのときが、近代の始まりだと言っている。
 ルネッサンスの美を謳い上げたボッティチェリが、なぜサヴォナローラみたいなちんけな宗教家に惑いつつ、生涯、沈鬱な面持ちで暮らさなければならなかったか、なぜ、「美」にあきたらなかったか、というあたり、そういわれると、ちょっと納得できないでもない。
 船越桂もカトリックだけれど、近年は、崇高性より美に傾きつつある感がある。今までになくエロチックだ。私見では「戦争を見るスフィンクス」あたりから、人間臭くなった気がする。崇高性と美の間で揺れている気がする。
 私が今書いている段階での理解では、井戸の茶碗が「崇高性」だとしたら、鍋島や野々村仁清が「美」だという程度の意味だが、しかし、読みかけの本について、これ以上書くのはあんましよくないか。

 安倍首相の戦後70年談話については、大山鳴動して鼠のしっぽが垣間見えた程度だったが、同時に戦没者追悼式典で平成天皇が述べられた「反省」の辞は、先のパラオ慰霊の旅とあわせて、わたしたちの国の不思議なねじれみたいなものを、あらためて考えさせる。
 無効になる物語っていうのは絶対あると思う。天皇の戦争責任っていうのは、たぶんそれだと思う。私自身も子どものころは、昭和天皇に戦争責任があるんだろうと思っていた。それはしかし、今考えると、安直な物語だった。昭和天皇が戦争を回避しようとして孤軍奮闘した痕跡は、さまざまに散見される。戦争の真の責任者は別にいると思う。しかし、この国ではいつもそうだが、真相よりムードが優先される。
 マスコミなどのなんとなくのムードで、「天皇の戦争責任」なんてことをいうのが「リベラル」と、安易に考えてきたにすぎなかった。そのウソが今剥がれ落ちつつあると思う。私の今の考えでは、天皇の戦争責任より、朝日新聞の戦争責任のほうがはるかに重いと思っている。
 「平和国家」という日本のブランド(これを「理念」と呼ぶのは時代錯誤だと思う)は、戦後、日本人が国民的な合意のもとで育て上げてきた、世界に向かって有効な、数少ないブランドの一つで、昨今のデモは、このブランドが、いかに国民全体に浸透しているかを物語っている。
 だから、「声を上げる」という意味では評価するが、60年代でも、70年代でも、そんなことをいっているうちに、あれよあれよとあの体たらくだったので、論理的にあまりに稚拙な運動はやはり長続きしないし、むしろ、悪影響が大きいということを、じつのところ、この戦後70年の歴史が教えてくれている。「声を上げる」ことは重要だが、「声がでかいほうが正しい」は、明らかに間違いだ。
 「核」から「テロ」へと脅威の質が変容した時代に、「平和国家」のありようも変化していかなければならない。その意味で、安倍首相が提唱している、「積極的平和主義」という方向は、それが文字通りの意味なら正しいと思う。問題は、文字通りの意味ではないと、国民に疑われていることだろう。私も疑っている。

 様々な問題にもかかわらず、アメリカをうらやましく思うのは、アメリカには「nation」が存在しない。「nation」という19世紀の迷信をどう克服するかが、21世紀の世界が抱えているテーマだと思う。そのひとつの取り組みはEUなのであり、その取り組みの違いが、日本とドイツの戦後の違いといってもいいのだろう。
 結局のところ、アジアでは日本以上に近代化した国はなかった。そのねじれが事態をグロテスクにしている。
 つまり、先の戦争への反省として、日本人が「nation」を脱しようとしているときに、中国や韓国は、戦争を「nation」の問題ととらえようとする。「慰安婦問題」がまさにその実例で、「慰安婦」の実態が悲惨であったからと言って、それを「nation」と紐づける意味はない。
 国家主義が引き起こした戦争を反省しているからこそ、そうした国家主義を脱していかなければならないのに、その戦争への謝罪を国家主義と結びつけようとするのは、ヨーロッパの場合と違って、謝罪を求めるほうが、謝罪を求められているほうより、後進国だからなのだ。
 中国は、その長い歴史からも、周辺国との関係からも、そうした国家主義の危険性を理解しうると思うが、韓国はそのねじれの危険に全く気が付いていないように思う。

 うちの父親は私と違って車の運転が好きで、旅行券とかプレゼントしても絶対車でしか出かけない。
 私が関東に帰るついでにドライブしようということになった。年齢考えるとハラハラもの。だけれど、たしかに私よりはるかに運転がうまいし、体力も下手すれば私よりあるかもしれない。田貫湖にある国民休暇村で一泊して、私は大月からJRで、両親は中央自動車道をかえった。
 朝、たまたま晴れ渡って、いわゆる「ダイヤモンド富士」もどきの景色を見ることができた。彩雲も出ている。きけば、お盆のこの時期しか富士の頂上から朝日がさすことはないそうで、その意味では幸運だったが、しかし、カメラマンがいっぱい場所取りしているのは興ざめだった。