『ノモンハンの夏』『相沢事件』

ノモンハンの夏 (文春文庫)

ノモンハンの夏 (文春文庫)

実録 相沢事件 ---二・二六への導火線

実録 相沢事件 ---二・二六への導火線

 半藤一利の『ノモンハンの夏』と鬼頭春樹の『相沢事件』を立て続けに読んだ。風邪をひいて休んでいたせいでまとまった時間があったので。
 一冊ずつならともかく、二冊まとめて読んでしまうと、でてくる感想はただ一つ。旧日本陸軍はバカの集まりってことだけ。陸軍がどうの海軍がどうのということをいうつもりはない。しかし、板垣征四郎陸軍大臣に向かって、「お前ぐらい頭の悪いものはいなのではないか」と、天皇がキレたシーンでは、さすがにそりゃ誰でもそう言うだろうと思うし、今、ノモンハンをめぐる陸軍の行動を知って、そう思わない人がどれくらいいるのか?。まあ、たぶん、日本会議の連中くらいではないかと思う。

 話はとぶけれど、映画『主戦場』について、日本会議の連中が、なんか抗議しているらしい。宣伝にしかならないのに気が付かない、その戦略性のなさが旧日本陸軍そっくりだ。あの映画の最大の問題点は、日系アメリカ人か監督したのにもかかわらず、グランデールで慰安婦像建立に反対した日系アメリカ人の誰にもインタビューしていない点だろう。そもそも『主戦場』というタイトルが、アメリカが慰安婦問題の主戦場になっているという意味だったはずなのに、その当事者にインタビューしていない。ので、その「主戦場」で慰安婦像に反対している日系アメリカ人の真意がわからない。日本会議とか、とくに、杉田水脈のレベルの低さはよくわかるのだけれど、バカにレンズを向けて、「こんなバカがいるぞ」は確かに面白いかもしれないが、その一方で、なぜ、自分と同じ日系アメリカ人の意見に耳を傾けなかったのか、レンズを向けなかったのか?。
 酷な言い方をすれば、安心してバカにできる相手にレンズを向けただけと言われても仕方ないだろう。つまり、ドキュメンタリー映画作家としては、フレデリック・ワイズマンのように自分を出さずに撮り続ける勇気もなく、マイケル・ムーアのようにとことんコミットする責任感もなかったと言わざるえないと思う。今回のはただ日系アメリカ人という立場が有利に働いたというだけのことだったと思う。

 江藤淳は、「大東亜戦争」から「太平洋戦争」へと、戦後、呼称が変わったことについて苦言を呈していたが、しかし、「大東亜戦争」という戦争がほんとうにあったのか、と疑問に思った。
 というのは、真珠湾攻撃までの中国でのぐだぐだは、陸軍が勝手に戦線を拡大していっただけで、そこに国家の意思があったかどうか。政府も天皇も「不拡大」ということを何度も言っているのに、のらりくらりと言を左右して、陸軍が勝手にドンパチをしていっただけなのである。これが戦争と言えるのだろうか。ノモンハン事件に関していえば、ヒトラースターリンの方がはるかに「人間的」である。旧日本陸軍は、猿の群れにしか思えない。
 特に、辻政信は、ひとりで何人を死にいたらしめたかと考えると、戦争犯罪者というなら、まさに彼がそれに違いないのに、まんまと逃げおおせて、戦後は政治家になっている。こういうものに政治家をさせておいて、一方で戦争責任とか議論しているのは、全くの欺瞞だと思う。
 目の前の悪人を放置して、天皇がどうの、憲法がどうの、安保がどうのの議論をしている。それは異様な光景だろうと思う。

 ノモンハン事件は、司馬遼太郎が「正気の人と思えない」と投げ出してしまったのを、半藤一利がまとめたという経緯に見えるが、『日本のいちばん長い日』といい、半藤一利ストーリーテリングの技術もなかなかなものなのだと改めて思った。