近代と慰安婦問題

近代の虚妄―現代文明論序説

近代の虚妄―現代文明論序説

 日本は歴史を欧米と共有してきたし、歴史という概念を共有してきた。近代という歴史意識のもとで、二つの世界大戦を戦った。
 その歴史意識のもとでは、第二次世界大戦東京裁判でケリがついた。勝者が敗者を裁くことに当時から批判がなかったわけではない。それでも、東京裁判は「人道」の観点から受け入れられたわけだった。それこそが日本が欧米と共有してきた近代だったからこそ、勝者、敗者の双方が東京裁判を受け入れられた。
 そこには非戦の願いが籠められていた。単に、勝者が敗者を裁く、弱肉強食としての報復にすぎないという非歴史的な観点ではなく、この戦争の「真の」責任はどこにあるのかという問いが問われているという意識、まさに形而上学的な意識が共有されていた。その文脈で、天皇の戦争責任も争われた。
 天皇の存在が日本の統治に便利だったなどということは、近代の歴史意識にとっては全くの傍流であって、それはアメリカ的なプラグマティズムの文脈にすぎなかった。
 繰り返しになるが、あくまでも「人道」という観点で東京裁判は受け入れられた。それがまさに近代の意識だった。A級戦犯が本来軍事裁判て裁かれる犯罪者ではない、などいう苦情は、歴史意識のもとでは戯論にすぎなかった。
 A級戦犯は戦犯ではないという申し立ては、東京裁判は報復にすぎないという申し立てである。しかしもし東京裁判が報復にすぎないとすれば、天皇の戦争責任が問われたはずである。戦争責任は、「理性的に」判断すれば、まちがいなく軍部にあった。
 これは、日本も欧米も受け入れられる、理性的で公平で人道的な結論だった。
 こうして第二次世界大戦の歴史は閉じられた。この歴史を巻き戻そうとするものは右翼であろうと左翼であろうとバカなのである。なぜなら理性に反しているからだ。右翼がバカに見えるのは歴史と近代の意識からすれば、まったくまっとうな感覚である。
 さて、ここで慰安婦の問題だが、果たして慰安婦問題はどちらの側にいるのか。知性の側にいるのか、反知性の側にいるのか。
 少なくとも80年代までは、慰安婦問題は近代の問題として、知性の側から提議されたと認識されていた。その時までは、日韓ともにこの問題を共有できたし、現に双方で合意され、女性基金が立てられ、一部は補償もされたのだった。この動きに待ったをかけた挺対協の主張は、では何なのか?。
 彼らの主張は一見「知性的」に見える。しかし、それは、右翼の東京裁判に対する異議申し立てが一見「知性的」に見えるのと同じなのだ。その証拠に、挺対協の申し立ては二転三転し続けている。最初は、慰安婦問題について日本政府の関与を認めろと言っていた。『主戦場』という映画では、閣僚が靖国参拝をするから謝罪を受け入れられないと言っていた。つまり、彼らの異議申し立てには、実は根拠がない。逆に慰安婦証言のウソを指摘されても理性的な答えを出したことがない。というより暴力的な示威行為で批判を押さえつけている。韓国社会で慰安婦を批判した意見について、その反応が理性的であったかどうか。
 東京裁判については左右双方から異論はある。しかし歴史はそれについて結論を出してすでに時代は動いている。もちろん、理性的な異論であれば受け入れる余地はある。現に慰安婦問題もいったんは決着した。それについて異論を唱えるのも、もちろんそれが理性的な異論であれば共感を得ることができるだろう。現に、村山談話までは日本人の大多数がそれを受け入れていた。
 しかし、その後の反論に関してはとても知性的とは言えないだろう。慰安婦はもはや聖域化してしまっている。ここに日本と韓国の近代の受容の差を見てしまう。日本の右翼にとっても近代は受け入れがたいものだろう。挺対協はそれと同じ場にいてお互いにいがみ合っている。
 問題は、日本の公的な意見が右翼に寄り添いがちな度合いをはるかに超えて、韓国の公的意見が挺対協にべったりであることだ。
 この問題がこじれたについてはもちろん日韓双方の政府の対応に問題があったが、日韓両国民の意識の差には、やはり歴史認識の差があり、この解決は難しい。なぜなら韓国はこの問題を解決したいと思っていない。それは歴史意識に擬態したプラグマティズムの態度だ。なので、この問題は、韓国の選挙のたびに蒸し返される、もはや忘年会のカラオケのようなものになっている。または、法事のたびに繰り返されるおじさんの兄弟喧嘩のようなものか。
 いずれにせよ、近代も歴史もすでに過去のものになりつつある。慰安婦問題は近代の残照のもとで演じられているコメディーなのだ。近代を共有した欧米人にとって格好の見せ物だろう。