旧・統一教会と旧・挺対協

 『反キリスト者』から『道徳の系譜学』へと遡ってみた。ニーチェはそもそも牧師の家に生まれ、最初に進んだ道は神学であった。
 文章中、現代のコンプライアンス感覚からすると、引っかかるところはいくらも出てくるに違いないが、ここに展開されているキリスト教批判は、彼自身のアイデンティティにかかわる問題だったこと、そして、なんと言っても彼が20世紀を生きていないことを考慮しなければならない。
 おそらく、今の誰もニーチェほど深くキリスト教徒であることは不可能だろう。それに、逆説的に言えば、ニーチェと同じくらいに深い信仰心(と言って悪ければ「信仰についての思索」)があるなら、この晩年のキリスト教批判を皮相のヘイトと聞き違えるわけはないと思う。
 特に、明治時代に始まるキリスト教文化と東洋文化の切実な対立を経験した日本人にとっては、ニーチェキリスト教批判はなおさら深く響く。
 日本には、戦国時代と明治時代の二度に渡ってキリスト教が侵入する機会があったのだが、結局のところ、二度ともごく小規模にしか受容されなかった。
 これにはさまざまな要因が考えられるだろうが、つまりは日本はその頃までに十分に仏教国だったことが大きいと思える。
 鎌倉仏教の教義の深さに比べて、キリスト教の教義はいささかお粗末に思える。たぶん、戦国時代の人たちにもそう見えただろう。宣教師たちは、持参した時計を見せて「この時計を動かしたように世界を動かした人がいる」などというコケオドシをやったそうだ。戦国大名たちは苦笑いしただろう。
 日本に来たイエズス会の布教者たちは「日本人は有望だ」と思ったというが、それは、仏教や儒教などの歴史的思想的背景があるからだと、なぜ思わなかったのだろうか。ひとつには、宣教師たちには、仏教などの東洋思想についての知識がまるでなかった。だけでなく、そのくせ、キリスト教以外の宗教を未開の迷信にすぎないと決めつけていた。そんな態度で布教が成功するはずがない。
 戦国時代のその頃に比べれば、明治時代の方がはるかに危なかった。徳川末期のその頃は、寺院や僧侶の腐敗が激しかったと言われている。廃仏毀釈の狂乱にはそんな背景もあっただろう。にもかかわらず、その時も日本にキリスト教が定着したとは言いがたい。
 確かに、仏教はインド発祥の宗教であり、儒教は中国伝来の思想だったが、西洋との科学技術の差が大きく開いていたその頃でさえ、キリスト教を受け入れない程度には、宗教的なバックボーンが、日本人にはすでに身についていたというべきだろう。それが鎌倉仏教であり本地垂迹神仏混淆だったのである(その意味でも、明治政府の神仏分離策は愚かだった。国家神道が国を滅ぼすのも当然だった)。
 何を言いたいかというと、このところの統一教会の報道を聞くにつけて、韓国は、世界で最も新参にキリスト教に改宗した国なんだなぁと、つくづく思ったからなのだ。
 「韓国はアダム国家で日本はエヴァ国家」?。笑止というしかない。
 ニーチェのいうルサンチマンは単なる恨みつらみではない。恨みつらみを「正義」に体系化してしまうことである。韓国人が日本人を恨んでいる、ならこれはよくわかる。しかし、それだけではなく、自分達の怨みを「正義」だと思い込んでいる。
 日本人を騙して勧誘し、洗脳して金を巻き上げる。それを正義だと信じて疑わない、それこそニーチェの言ったルサンチマンそのものだ。

このまなざしは溜め息をつくように語るのだ。「わたしがもっと別の人間だったらよかったのに!  でももう望みはない。わたしはいまあるわたしでしかない。このわたしからどうすれば逃れることができるだろうか?  ともかく、わたしは自分にうんざりする!」……  このような自己への軽蔑の土壌に、ほんものの沼地に、あらゆる雑草と毒草が繁茂する。すべてが縮こまっていて、強い下心に動かされていて、不誠実で、しかも甘ったるいのだ。ここには復讐と怨念の蛆虫がうごめいている。この空気には、秘密と内緒ごとの匂いがたちこめている。ここにはつねに悪意に満ちた陰謀の〈網〉が張られている。

しかし彼らはそもそも何を望んでいるのだろうか?  彼らはせめて正義と愛と智恵と優越感をひけらかそうと、望んでいるのだ。それがこの「もっとも下劣な者たち」、この病人たちの野心なのだ!  そしてこの野心は、彼らをいかに巧みな者にすることだろう!  彼ら贋金造りが、どれほど巧みに徳の刻印を、徳の響きを、徳の黄金の響きを模倣するか、その手口にはただ感嘆するばかりである。

彼らは主張する、「われわれだけが善人なのだ。正しき者なのだ、われわれだけが善意の人間なのだ」と。

彼らのうちには、裁判官を装った復讐の鬼たちがうようよしている。この復讐の鬼たちは、「正義」という言葉を、毒のある唾液のように絶えず口の中に蓄えている。

 ニーチェのこの烈しいキリスト教批判を、キリスト教全般にすぐに当てはめるのには躊躇してしまう。が、世界で最も新参のキリスト教徒(なのか?)の統一教会には、ほぼそのまま彼らの出現を予言していたかのようなのである。
 これはまた、統一教会問題とならんで、もうひとつ日韓の間に横たわっている問題、慰安婦問題にも気づきを与えてくれる。慰安婦問題とは、前にも書いたとおり、実は慰安婦の問題ではない。元慰安婦の方たちには、女性のためのアジア平和国民基金の補償金を受けとってくれた方もいた。これを妨害したのが挺対協だった。慰安婦問題とは、実は、挺対協(韓国挺身隊問題対策協議会)の問題にすぎない。しかも、奇しくもこの団体も「日本軍性奴隷制問題解決のための正義記憶連帯」と名称変更している。
 こう考えると、慰安婦問題が解決しない理由は明白になる。私たち日本人は「真実」を知りたいと考えているのに対して、彼らは「正義と愛と智恵と優越感をひけらかそうと、望んでいる」だけだ。「彼らは主張する、「われわれだけが善人なのだ。正しき者なのだ、われわれだけが善意の人間なのだ」と。」そして、「「正義」という言葉を、毒のある唾液のように絶えず口の中に蓄えている。」
 彼らは真実に興味はない。都合の悪い事実には蓋をしてしまう。そして、出来の悪い彫刻を世界にばら撒いて、それを真実の代用品にしようとしている。慰安婦問題と統一教会の問題は実は同根だということがわかる。まさにニーチェのいうルサンチマンの道徳なのである。
 滑稽なのは、安倍晋三周辺のネトウヨたちだということになるだろう。いったい今彼らは自分たちのレゾンデートルを同定できるのだろうか?。「在日特権が」とか「反日が」とか言ったそのお仲間が、日本人を洗脳して巻き上げたカネを韓国に送っていたのである。未だに元気なネトウヨほんこんさんぐらいである。バカにされるのが平気なのはやはりほんとにバカなんだと思う。鬼越トマホークに「ダウンタウンのおまけ」と揶揄されるはずだ。
 それよりも安倍晋三という人物の頭はいったいどうなっていたのか?。理解に苦しむ。論理的にも倫理的にも完全に分裂している。右翼に殺されたらよかったのか、左翼に殺されたらよかったのか、まるでわからない。
 今、統一教会を批判するのは犯人の思惑通りだという人がいるらしいが、この状況で何が犯人の思惑なのか、どうして確言できるのかがわからない。犯人と面談でもしたのだろうか?。
 岸田内閣は、統一教会と関係のあった閣僚7名を排除したが、新閣僚にも7名が統一教会と関係していた。その上、副大臣政務官には16名の統一教会関係者がいるそうだ。これに加えて、日本会議創価学会がいるわけだから、これで憲法をいじられたらたまったものではない。どころか、一般的な法律ですら触ってほしくない。
 この統一教会の問題は、慰安婦問題と同じく、日韓間の外交問題でもある。元首相が殺される原因のひとつにもなったのだから、日本外交の手にはけっこう強力なカードが滑り込んだことになるが、内閣自体が統一教会に汚染されているのだからせっかくのカードも使える可能性はない。
 もうひとつ、付け加えるなら、もし、日本にも、右翼、左翼などという対立が存在するなら、安倍晋三が韓国のカルトと結んでいたと分かった以上、右翼は反安倍、反自民で動かなければならないはずだ。しかし、そうはならないだろう。何度も言うよに、日本には右翼も左翼もいないのである。