「反キリスト者」 - ルサンチマンについて

 先週末はニーチェの「反キリスト者」を読んでいた。短いので読みやすいが、体系的に理論武装されてるわけではないので、断章的に取り上げて、悪意を持って批判しようと思えばそれで済ませられる。
 ましてや、これが出版された1895年(明治28年、まだ日清戦争も起こっていない)なら、近代=ヨーロッパ=キリスト教と世界中が思い込んでいた時代と言えるだろうから、ニーチェのこの激しいキリスト教批判が、まともに取り合われなかっただろうことは想像に難くない。
「この書物はごく少数の人たちのものである。おそらく彼らのうちのただひとりすらまだ生きてはいないだろう。・・・」
と、序言の冒頭にある。絶望ではなく確信を感じさせる言葉だ。
「人は、私の真剣さに、私の激情にだけでも耐えるために、精神的な事柄において冷酷なまでに正直でなければならない。・・・政治や民族的我欲の憐れむべき当今の饒舌を、おのれの足下にながめることに、熟達していなければならない。」
 近代化=キリスト教化と、本気で考えられていたこの時代、日本でも、内村鑑三や植村正久の指導で多くの改宗者を出した。例えば国木田独歩、たとえば正宗白鳥。それでも、日本はキリスト教化されなかった。というか、国木田独歩や、死の直前に洗礼を受けた正宗白鳥でさえ、キリスト教に帰依したと言えるかどうか疑わしい。
 志賀直哉は『暗夜行路』の主人公に
「もし今一人の牧師が自分の前へきて『心の貧しき者は幸いなり』といったら自分はいきなりその頬をなぐりつけるだろうと考えた。・・・心の貧しい事ほど、みじめな状態があろうかと思った。」
と言わせている。芥川龍之介が憧れた志賀直哉の健全さはこれなんだろうと思っている。芥川龍之介も「おしの」という短編で似たようなことをやろうとしたがうまくいってない。
 ニーチェが、当時、キリスト教化を近代化と同じと考える傲慢を「民族的我欲」にすぎないと断罪していた、とは言い切れないが、仏教とキリスト教を比較している箇所を読むと、少なくともキリスト教を絶対視していないことは明らかである。因みに少し遡ると、ゲーテは仏教をうす暗い神秘主義と捉えていたふしがあった。ただし、ゲーテが仏教と比較したのはキリスト教ではなく、ギリシャ哲学だったが。
 今日的な目で見れば、仏教よりキリスト教の方がよほど神秘的に見えるはずだ。少なくとも、啓示宗教であるという点だけからも、キリスト教の方が神秘的でなければならないはずだ。
 それこそ東洋人の「民族的我欲」から、仏教はキリスト教より優れているなどと言いたいわけではない。そうではなく、ゲーテですらただの神秘主義と思っていた仏教を、キリスト教と同列に比較してみるといった「精神的な事柄において冷酷なまでに正直」なニーチェの態度は、今日にあっても持てない人が多いだろうと思うのだ。
 日本には、近代化とともにキリスト教を受容しようと格闘した、優れた先達の例がいくらもある。そのおかげで、私たちは仏教もキリスト教も相対化することができる。「足下に」眺めることができる。しかし、それはようやく今だからできるというべきだろう。戦前戦中、民族主義の熱に浮かされた時代の日本人にはそれはとても期待できないはずである。
 それを19世紀末、ほとんどキリスト教が絶対視されていた時代にやってのけたニーチェには感嘆する。「おそらく彼らのうちのただひとりすらまだ生きてはいないだろう。」という序言の一節は、その後の100年に世界が被ってきた苦難の歴史を考えるとおそろしく重い。目を背けたくなるような殺戮の歴史を経てこなければ、私たちはニーチェの「真剣さ」と「激情」に耐えられなかったのである。
 この本を読んで初めて、ニーチェルサンチマンという言葉を理解できたと思う。韓国のキリスト教化は、まさしくそのキリスト教理解の正しさを立証しているように見える。
 たまたま、この本を読んでいる最中に、安倍晋三氏暗殺が統一教会と関連しているらしいニュースが流れ始めた。そのために、まるで意味のある偶然のように、そこだけがハイライトされてしまうのに注意しなければならないが、韓国のキリスト教化は、ローマ帝国統治下でキリスト教が成立する過程のごく小さなミニチュアに見える。これはまたそれほど日本の統治が酷かったという裏返しでもあるが。
 ローマ帝国に祖国を滅ぼされたユダヤの民の中からキリスト教は生まれた。国を滅ぼされる以前は、ユダヤの神も、ギリシア神話の神々や日本の神道の神々のように、気まぐれで理不尽な自然神であった。

 それが、民族の完全な敗北によって屈折してしまったのである。人類史には、そうして完全に滅び去った神々も多数いたはずである。ユダヤ教が生き延びたのは、ローマ帝国が寛大だったからだとさえ言える。たとえばユダヤ人自身が「約束の地」と呼んでいるイスラエル

 神はイスラエル人にこう言った。「あなたの神、主が嗣業として与えられる諸国の民に属する町々で息のある者は、一人も生かしておいてはならない。ヘト人、アモリ人、カナン人、ベリジ人、ヒビ人、エブス人は、あなたの神、主が命じられたように必ず滅ぼしつくさねばならない」(申命記20章16節〜17節)

 聖書によれば、

イスラエルの神、主が命じられたように」(ヨシュア記10章28〜42節)ユダヤ軍が、リブナ、ラキシュ、エグロン、ヘブロン、デビルの町々、山地、ネゲブ、低地、傾斜地を含む全域の「息のあるものをことごとく滅ぼしつくした」

とある。ローマ帝国イスラエルより残虐だったわけではない。

イスラエルの歴史は、自然の価値からすべてその自然性を剥奪する典型的な歴史として貴重である。

ニーチェは書いている。
 イスラエルも、もともと、とくに王国時代にはすべてのものと自然な関係を保っていた。エホバがイスラエルの神であるとは、イスラエルの人々の希望であり、歓喜であり、勝利であり、救いでもあり、力である、つまり正義の神だったのである。そうした自然な関係性、他の全ての民族と同じような自然と暮らしとの関係の中から培われた神への思いが、他の民族の侵入によって壊れたとき何が起こったか?。もはや以前なしえたことのひとつとしてなしえない神は捨てられたか?。そうではなく、不幸は罪に対する神の罰だということになった。
 私たちの今知っている宗教の姿がここに生まれているのが見える。教会が、僧侶が、原罪が、殉教が、ここから生まれてくるのが手にとるようにわかる。
「いわゆる「道徳的世界秩序」という欺瞞きわまる解釈の手法にほかならない。報いと罰とで自然的因果性が世界から除去され」
気力と自己信頼の霊感であった神に代わり、「要求する神」が現れる。
「万事に対する「悪意のまなざし」としての道徳。」

神の概念は偽造され、道徳の概念は偽造された、(略)その証拠として残されたのが聖書の大部分である。(略)言いかえれば、その過去を、エホバに対する負い目とそれに応ずる罰という、エホバに対する敬虔とそれに応ずる報いという愚にもつかない救済のからくりにでっちあげてしまったのである。

 これを読んでいて想起してしまうのは、日本人が仏教を受け入れたときの、本地垂迹神仏習合のしたたかさである。もちろん、それが定着するには長い時間がかかったし、仏教に主流とは誰も考えていないのだが、一般大衆のレベルでは、神と仏は完全に一体化した。除夜の鐘を聞いたその足で初詣に出かける、ジョークのように言われることだが、実のところ、日本という国が形作られる前から、自然に信じられてきた神と人間との関係を連続させるためには神仏習合は欠かせなかった。
 中沢新一神仏習合について

・・・鎌倉新仏教にばかり目を奪われていると、日本人の精神史に起こった、このような重大な飛躍を、私たちはうっかり見過ごしてしまうことになる。

と書いている。
また、白州正子は

・・・当時の仏教が、外側の形式を真似ることに忙しく、一般日本人の精神生活に、影響を及ぼすに至らなかった、その間隙を縫って、民族の中に生きつづけたほとんど思想とはいいがたい本能的な力が、ある日突如として爆発した。

と書いている。
 法然親鸞道元といった人たちの思想は確かに重要に違いないが、そもそも民族と共にあった神とは、それとは次元が違ったのである。
 そう思うと、廃仏毀釈とそれに続く国家神道は愚かだった。日本人の自然な道徳基盤を毀損し、ありもしない神をでっち上げたという意味では、確かに、ニーチェキリスト教について言っていることと似ている。イスラエルと違って、国が滅ぼされたわけではなかったのに、一部の人間が、ことの重大さを理解せず政治利用を考えたのかもしれないし、あるいは、江戸時代から胎動し始めたナショナリズムの史観で歴史を書き換えられると考えたのかもしれない。
 いずれにせよ、ほんとうに国が滅んだ後の国家神道は、ままニーチェの言うことが当てはまる。まさにルサンチマンの道徳(?)いや、もっとひどいのか、悪くともキリスト教は2000年文化を育んだわけだが、国家神道は、国が滅んでから100年も経たず、いまだに暴力でなんとか従わせようと躍起になっているだけだから。
 ここで、日本の政治状況の奇妙なねじれが見えてくるだろう。
 統一教会の教義は、ルサンチマンと言ってもいいかしれないが、というよりわかりやすく恨みつらみだろう。日本人から献金を巻き上げて韓国に送金するカルトが、日本の極右である安倍晋三と祖父の代から協力関係にある。すると、何故この人の政権下であんなにも日韓関係が冷え切ったのか不思議になる。
 慰安婦問題をめぐっても不思議なねじれが見える。慰安婦の存在が人権問題であるについて何の異論もない。しかし、これがなぜ日韓関係の問題なのかわからない。日本人の慰安婦もいたし、韓国人の兵士もいたのだ。慰安婦問題に関してなぜ韓国人が自分達が被害者だと思っているのかは、分からないというより、わかりすぎる。慰安婦問題は韓国の極右である挺対協の主張にすぎないが、これをなぜか日本の左翼が支持している。ありもしない対立軸で泥試合をしているので庶民の心が離れていくのだろう。
 やっぱり目の前の事件に引っ張られて話が少し政治寄りになった。
 「悪とは何か?。弱さに由来する全てのもの」という一節がずっと気にかかっている。「弱さは悪ではない、悪こそ弱さだ」と左翼は言うだろう。また、「強さこそ正義だ、弱さは悪だ」と右翼は言うだろう。私はどちらも正しいと思えない。これではお互いが「お前が悪い」と罵り合ってるにすぎない。
 できれば自分の心の弱さを克服したい。しかし、弱さを克服したと思った途端に実はそれこそ弱さだったということになりたくないのだ。ニーチェににとって悪は二種類あったそうで、ここで言われている悪は「schlecht」で「böse」とは区別して使っていたらしい。それについてどう書いているのか知りたいと思う。