『掏摸』

knockeye2016-10-13

掏摸(スリ) (河出文庫)

掏摸(スリ) (河出文庫)


 こないだの桃井かおりの映画もそうだったんだけど、最近名前を耳にするようになってきた中村文則の小説『掏摸』を読んだ。
 ちなみに、最近、kindle paper whiteにした。というのは、液晶は、やっぱ、目が疲れすぎ。バックライトをオフにしてベッドサイドの灯りで読んでる感じが快適で、それで思ったけど、カラー電子ペーパーを制するメーカーが、次に天下を獲るでしょうな。スマホタブレットが生活に浸透すればするだけ、目の負担も大きくなるわけで、Retinaディスプレイなみのカラー電子ペーパーができれば、そっちに乗り換えるでしょう。
 「掏摸」は、英語にも翻訳されてて、欧米でも評価が高いらしい。ウォール・ストリート・ジャーナル、2012年のベスト10に入ってるんですと。
 2010年の大江健三郎賞も受賞していて、おもしろさは今更いうまでもないので、ここでは、作家本人があとがきで書いているように、資料として読んだという旧約聖書とのかかわりについてふれたい。
 作家は、それはテーマじゃないと書いてるんだけど、でも、コンテキストにキリスト教の世界観が感じられて、そこも欧米で受けた一因ではないかと思ったりした。日本人がそんなこと思っても、何の意味もないんだけど。
 9.11のアメリカ同時多発テロ以来、キリスト教vs.イスラム教みたいな、仏教徒としてはなんだか取り付く島のない世の中の流れになっている。欧米が世界に先駆けて近代工業化したせいもあり、20世紀はキリスト教の価値観が独り勝ちだった。日本も、明治以降、西洋を模範として国造りを進めてきたため、本来なら抱かなくてもよい西洋コンプレックスに長い間とらえられてきた。大きく言うと、無謀な太平洋戦争にしたって、そのコンプレックスの結果といえるのかもしれない。
 話が大きくなりすぎたけど、そういう西洋コンプレックス、キリスト教コンプレックスみたいのが、かつてあったのは事実だといいたいわけ。でも、実感として、今はないよね。いまだに、そういうコンプレックスを持っている人は、いたとしても少数派だと思う。むしろ、ネオコンとかのキリスト教原理主義みたいな言動を目にすれば、眉を顰めるのが「フツーの人」なんじゃないだろうか。 
 で、そんな具合に、熱病から醒めたような今、あらためてキリスト教って何だったのかと考えてみると、結局のところ、ローマ帝国民の生活感情にすぎないな。ローマ帝国があったからこそキリスト教が成立した。
 もちろん、ユダヤ教の神はその前からいたんだけど、それは、この土地に住んでるやつら皆殺しにしたら、この土地をお前らにやるぞっ、とかいうふざけた輩ですよね。
 そういうのが博愛の神に化けることができたのは、イスラエルなんかと比べ物にならない、強大な権力を持つローマ帝国が成立したからでしょう。人は神の似姿だというけれど、神はローマ皇帝の似姿でしょう。
 たぶんそうだろうなと思ってたんだけど、やっぱりなと思ったのは、グノーシスに関する本を読んだとき。グノーシスは、「何様やねん、この偉そうな神ってやつは」という、矛盾だらけの絶対神を、ギリシア的な理性と折衷しようとする試みだった。
 だいたい、こどもでもわかることだけれど、神が作った世界が苦痛に満ちているのは決定的な矛盾。グノーシスは、その矛盾を説明しようとしたわけだけれど、結局、生き残れなかった。なぜか?。それはさ、論理的障害をくねくね迂回してうまく説明できたとしてもさ、ローマ帝国の現実、被支配民の動かしがたい現実には何の役にも立たない。なにか癒しを求めようとすれば、キリスト教の神みたいなほうがよかったわけよ。虐待児童が親の虐待を愛だと信じ込むのといっしょですよね。そう信じないと生きていけなかったっていうそれだけ。
 『掏摸』は、そういう神みたいな、裏社会の支配者が出てくるんだけど、主人公の掏摸が、ほとんど無意識に、もはや習慣化している、あるいは「儀式化」している(このへんは昨日の記事の余韻です)、掏摸の手わざで、神の思惑をすりぬける。ラストは秀逸ですね。
 続編の『王国』も読みたいんだけど、kindle化されてない。本は正直いって重いんですよね。重くて字が小さい。kindleで同時発売してほしいな。