『イエス・キリストは実在したのか?』

knockeye2014-07-20

イエス・キリストは実在したのか?

イエス・キリストは実在したのか?

 私も人並みに三連休だったので、今日は出掛ける予定にしていたのだけれど、この本が面白すぎて読みふけってしまった。
 邦題がちょっと‘丹波哲郎’系のうさんくささを臭わしているが、原題は‘ZEALOT The Life And Times of Jesus of Nazareth’、‘ZEALOT’は「狂信者」とか「熱狂者」という意味。この本のカバーでは「革命家」という訓みをあてている。
 著者のレザー・アスランという人は、イラン革命でアメリカに亡命してきた人で、子供の頃、キリスト教に改宗して、宗教学を学び始めるが、学ぶにつれて、聖書に矛盾を感じ始め、後にイスラムに改宗したそう。
 こういう話を聞くと、何か懐かしい気持ちになる。正宗白鳥とか、国木田独歩とか、明治の文化人たちの置かれた状況とすごく似ていると思う。
 イランという国は、今はイスラム教国であるだろうけれど、古くはゾロアスター教が盛んだったはずで、そういう多様性、文化の厚みという意味でも、どこか日本に似ている。いい映画監督が多いっていうところも。
 マタイによる福音書10章34節、「私が来たのは地上に平和をもたらすためだと思ってはならない。平和ではなく剣をもたらすために来たのだ」が、巻頭を飾っているのも懐かしい。これは、たしか、トルストイが「アンナ・カレーニナ」だったかに引用して、主人公を(リョービンだった気がするけど、ここちょっと曖昧)暗い気持ちにさせている。どっちにしても、これがトルストイの平和主義と相容れそうにないことは、簡単に想像できる。これを巻頭に持ってきていることで、この著者の信仰の態度に、私としては、信頼がおけるわけ。逆にいえば、こういうところを平気で読み飛ばせる人が信頼できない。
 初期キリスト教教団の実情は、以前、『イエスの王朝』という本を読んで、ある程度の予備知識はあったが、今回は、あの頃からさらに研究が進んだのか、特に、当時のイスラエルの状況について、ローマ帝国イスラエルの関係、ユダヤ教会の腐敗とか、後にキリストと呼ばれる、ナザレのイエスがどういう背景でああいう行動を起こしたのかがよくわかった。
 今、イスラエルがガザに侵攻している時期が時期だけに、衝撃を受けたのは、ユダヤの人たちが、イスラエルを「約束の地」と呼んでいるについて、私は、今まで漠然と、「もともとユダヤの人たちが住んでいた土地だったからだろうな」くらいに思っていたけど、違うんだって。知ってました?。私は知らなかった。
 「住んでいる」から「約束の地」だって言うんじゃないんだって。もともとは他の民族が住んでたんだって。そこに、ユダヤ人が「この土地、神様がオレたちの土地だって言ったからさ」つって、女子供まで皆殺しにして住み着いたんだって。それが「約束の地」っていう言葉の意味なんだって。
 自分たちがもともと住んでましたってことを比喩的に言ってるんじゃないんだね。「神様が言ったから、おれのだから」で、皆殺ししちゃう人たちなんだね。
 それが、2000年前の話でしょって言えればいいんだけど、今のガザ侵攻なんて、そのまんまなんだよね。うすら寒いわ。
 シオニストがあの辺に入植し始めてから、あの人たちずっと戦争してるんだけど、仲良くしようとか、平和に暮らそうとか、分かち合おうとか、思わないのかなぁって疑問に思ってきたけど、そら思うわけないわ。「約束の地」っていうこと自体が狂信の極みなんだから。
 とりあえず、そこ引用しときます。

 神はイスラエル人にこう言った。「あなたの神、主が嗣業として与えられる諸国の民に属する町々で息のある者は、一人も生かしておいてはならない。ヘト人、アモリ人、カナン人、ベリジ人、ヒビ人、エブス人は、あなたの神、主が命じられたように必ず滅ぼしつくさねばならない」(申命記20章16節〜17節)
 聖書によれば、「イスラエルの神、主が命じられたように」(ヨシュア記10章28〜42節)ユダヤ軍が、リブナ、ラキシュ、エグロン、ヘブロン、デビルの町々、山地、ネゲブ、低地、傾斜地を含む全域の「息のあるものをことごとく滅ぼしつくした」あとでやっと

彼らの神は、ユダヤ人がその地に入ることを許した。
 一応聞くけど、この神様、キリスト教の神様とおんなじひとですよね。
 ナザレのイエスが生きていたその時代、ローマの圧政と既得権益をむさぼる教会の腐敗に不満を持って、これに立ち向かおうとしてたイエスみたいな人はけっこういたらしく、十字架刑というのは、そうした反乱者の見せしめとして行われていたらしい。現にイエスもその他二人といっしょに処刑されている。
 イエス・キリストと他の人を分けたのは、結局、復活だな。
 死んだ人がよみがえった。だから、あの人、神様だったんだよっていうこと。これを信じるしかないという意味で、これは切実な信仰だろうと思う。
 もうひとつには、イエスが亡くなってほどなく、紀元70年、イスラエルがローマに無謀な反乱を起こして、完全に壊滅させられ、ユダヤ人が各地に離散した。
 この時点で、ナザレのイエスが掲げていた理想は完全に潰えたはずなんだけど、そのときに、マルコという人が、最初の福音書を書いたということだそうです、ギリシャ語で。初期のキリスト教改宗者は、エルサレムに具体的につながるユダヤ人社会の構成員ではなかったということだそうです。
 John Gagerというひとによると、「しかるべき条件のもとでは、基本的な信仰が世界の出来事によって無効にされてしまった宗教共同体はかならずしも崩壊したり解散したりしない。それどころか、大事な信仰が無効になったことから生じる悲嘆や疑念という、行動と信念との間の矛盾を体験的に認識することによって、かえって熱烈な宣教活動を行う可能性がある」と、その著作で報告しているそうです。
 そしてもうひとつはパウロだな。『イエスの王朝』でも大活躍だったパウロ。このひとは、生前のイエスには一面識もないんだけど、復活したイエスには会った、だから、私は使徒ですっていいはって、自分勝手に教義を変えちゃうので、イエスの死後、教団を率いていた義人ヤコブから、叱責されているし、「パウロの言うことは聞かないように」みたいな回状まわされているし、現に、信者からも不信感をもたれていたらしい。
 でも、のちには、パウロの流れを引く、アタナシウス派がローマの国教になる。エルサレムから遠ければ遠いほどローマに都合がいいわけだから当然かもしれない。
 イエスの復活を信じざるえない状況で、国が滅び、民族が離散したことが、キリスト教を成立させたといえる。結局、すべての人の一生が、死と別れで終わるわけだから、復活と再会の望みを吹聴されれば、人はそれにすがるということなんだろう。