東京都写真美術館に「フィオナ・タン まなざしの詩学」を観にいった。
商業映画そのものをアートと呼ぶのに別に躊躇するつもりはない。美術、音楽、文学、演劇を統合した映画という芸術は、事実上、いま最も盛んなアートだと言える。
そうした商業映画のシステムとは別に、映像が、いわゆるファイン・アートの世界に侵入しはじめてから、アートの世界で独自に発展してきた映像世界というのが一方にある。しかし、商業映画が到達している成熟度に比較すると、映像を手法としたさまざまなアートには、おそらくフォーマットの‘自由に呪われて’か、これぞというマスターピースは現れていないみたいだし、それになにより、映像が私たちの日常に入り込んでいるその状況を考えると、映像をアートの素材、手法に選ぶこと自体が、そもそも、そういうマスターピースを志向していないとでもいいたげな姿勢には、実は、ひそかに共感を抱きさえする。
それでも、美術の世界の映像作品というと、何か、飛び道具というか、イロモノみたいな気分でとらえているのも事実だった。
フィオナ・タンは、‘彼女の作品なら観にいこうか’と、つまり、ただ絵を観にいこうではなくて、モネを観にいこうとか、ビュフェを観にいこうみたいに、作品と作家が頭の中で結びつく、私にとってはじめての映像芸術家かもしれない。
最初に観たのは、犬島を撮った「cloud・islands」という作品で、これがすごくよかった。映画ではないし、ドキュメンタリーでもないし、インスタレーションとかハプニングみたいな要素もない、ただの映像が、こんなに面白いのは、初めての感覚だった。
多くの作家は、絵筆を持って絵を描く、とか、カメラを持って写真を撮る、という、手の技術にとらわれて、イメージそのものを取り逃がしがち、だけど、彼女の作品にはイメージの新鮮さがとらえられているように思う。
ただ、映像作品なので鑑賞に時間はかかる。今回の展示は、一階のホールで、それぞれ一時間ほどのふたつの映画と、二階で、映画とはフォーマットの違う映像作品、だったんだけど、二階の方のは全部は観られなかった。
映画は、「興味深い時代を生きますように」というのと、「影の王国」。
「影の王国」は、イメージそのものについての作品で、偶像を否定する宗教の話から、彫刻は古代人にとってのイメージだったと言われてみて、たしかにそのとおりだと、そういうところで虚を突かれてみて、彼女の感覚の鋭さにあらためて感心したりした。
印象的だったのは、これは、2000年の作品なんだけど、元ナチスだった報道カメラマンの人のインタビューで、ハイテク化された「イラク戦争には映像が残っていない。だから、あの戦争は、将来、なかったも同然になるだろう」って言ってたこと。たしかに、それから14年しかたってない今でさえ、イラク戦争の印象はすごく薄い。
「興味深い時代を生きますように」は、自身をディアスポラという、彼女自身のルーツをめぐる。
見逃してしまった映画「アクト・オブ・キリング」と背景が重なる、インドネシアで投獄されたおじいさんの話とかでてくる。
かのじょの父方の親戚はみな華僑なので、1997年だけど、その頃の華僑のリアルな感覚が伺えて興味深かった。スイスでレストランを開いているいとこがいる一方で、中国に戻ったいとこもいる。
ディアスポラという感覚には、私はむしろ肯定的だ。フィオナ・タンの映像が魅力的なのは、一面、たしかに彼女のディアスポラ的な感覚に負うところが大きいと思う。
二階の作品はまたいつか観にいってもいいな。それでもふたつは観たのだけれど。
図録はまだできていなくて、予約して郵送だそうです。最近、これ多いな。