- 作者: 吉田健一
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 2014/05/10
- メディア: 文庫
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吉田健一未収録エッセイのふたつ目。吉田健一のエッセイは、全集にも未収録のものがまだいっぱいあるそう。ただ、講談社文芸文庫も『ヨオロッパの世紀末』を先に出すべきだという気もする。
「現代文学における神の問題」は、その準備稿のようなおもむき。
それによると、絶対という概念は、ヨーロッパではギリシャ文化とともに現れたが、古代ギリシャ人は、つねに、絶対の観念に生命の観念を対置させていた。ギリシャの神々はまだヨーロッパの神ではない。
絶対者としての神は、ユダヤ人がこれをヨーロッパにもたらし、やがてキリスト教となって、これがヨーロッパを支配する。
死にゆくわれわれに対する、絶対という概念と、絶対者はまったく違って、絶対者はひとつの人格であるから(私に言わせればその時点で絶対ではないが)、われわれを愛したり怒ったりする。となると、絶対者に愛されることで、われわれも死にゆく境涯から脱せられる可能性が生まれる。あるいは、悪いことに、この神に疎んじられれば、死んだ後まで永遠にゲヘナの劫火に焼かれるかもしれない。現代の篤信家がどのように弁明しても、結局のところ、近代とはこの迷妄を相対化できる文明をいうだろう。
吉田健一は、ヨーロッパの世紀末とは、つまり、西欧の文化が、キリスト教の呪縛から離れるその諸相をさしていると言っている気がする。
アメリカが今抱えている問題は、アメリカの源流のひとつが、ピルグリム・ファーザーというキリスト教原理主義者で、アメリカがキリスト教を相対化しきれないことかもしれない。阿部謹也が『西洋中世の男と女―聖性の呪縛の下で』で、これについ書いていたと思う。
こんなことを書くのは、最近のイスラエルによるガザ侵攻の非道ぶりを目の当たりにしてさえ、これについて、手をこまねいている、どころか、口をつぐんでいるアメリカの姿勢に不審を抱くからだ。
単に政治的、経済的な理由からとは思えない、反イスラムの態度には、中世の迷妄を引きずっているようにさえ見える、不気味さを感じるのは私だけなんだろうか。