『グノーシス』

knockeye2016-03-11

 なんだかんだ言ってまだ体調が悪く、ブログとか更新している場合でもないので、本を読んでいた。
 『グノーシス』てふ成城学園かなんかで教えている人が書いた本。

 キリスト教の場合、終末が来るといいつつ来ない「終末遅延」という言葉があると、こないだの佐藤優の本で知ったばかり。イエスの弟子たちはすぐにでもこの世の終わりが来ると思っていたが、なかなか来ないので、その遅延の間に、よくよく考えると「なんか可笑しくね?」となって、あれこれ考えているうちに、その考えの違いでいろいろな宗派が生まれた。

 グノーシスの語意は「認識」だそう。ギリシャ的な知を求める指向がまだ残っていたなら、キリスト教ユダヤ的な要素とは相いれないのは仕方なかったろう。非キリスト教徒にとっては、いたってもっともな幾つかの疑問について、答えを導こうとした、無駄とまで言えない努力であったと思える。たとえば、もし神様がいるなら、「はよ救えっちゅうねん?」とか。
 非キリスト教徒には、グノーシスの方の教義が、むしろ、わかりやすいなと思う一方で、これはウケないわとも思った。
 結局、キリスト教グノーシスの分かりやすい方向にはいかなかった。そういう分かりやすさが求められていなかったと思う。人々はももはやアクロポリスの市民ではなく、ローマ帝国の臣民だった。「理不尽」な神の方が、「分かりやすい」神よりも、当時のひとたちの癒しになったとすれば、それについてはちょっと考えさせられた。世界観が違うとそういうことが起こりうる。
 あたかもローマ皇帝のように、理不尽で横暴な神を、盲目に信じる方が、神について知的な議論を交わすより愛されるとすれば、そうした理不尽な神を信じることで、他者に対しては、その他者がそれを信じようと信じまいと、自身もまた、そうした理不尽な神としてふるまうことができるということだし、そうした理不尽で横暴な神こそ憧れの対象になる、現実がそこに投影されているのだろうと思う。
 ローマ帝国が成立してからキリスト教が蔓延するまでのわずかな期間を「神々はすでになく、神はまだいない、人間が自分の足だけで立っていた時代」と、フローベールが羨望を込めて語る理由はそのあたりにあるだろう。
 司馬遼太郎は、キリスト教世界宗教になりえたのは、ローマ帝国のイメージがあったからだと書いていた。結局のところ、キリスト教ローマ帝国の宗教だった。現実のローマ帝国が衰退し、分裂するにつれて、ローマ帝国そのものが宗教的なビジョンとなっただろうことはすんなりと納得できる。
 この著者はこう書いている。
「『正統』は『真理』すなわち『教会が昔から現在まで一貫して守ってきている教え』であって『異端』は『虚偽』すなわち『悪魔がそそのかした間違った教え』である、というような信心深いけれどもナイーブな考え方は、現在の(まともな)キリスト教史研究ではすでに克服されている。」
キリスト教グノーシスに限らず、(略)あえて言えば、真理の問題よりも歴史や文化の問題の方がはるかに重要である。」
と、しかし、この人が言えるのも、たしかにウェストファリア条約以降の世界に生きているからである。佐藤勝によると、中世と近代を分けているのは、ウェストファリア条約だといったのは、エルンスト・トレルチだそうだ。プロテスタントカトリックの血で血を洗う三十年戦争を、お互いの「愚行権」を認め合うことで終結させた。
 だとしたら、グノーシスプロテスタント、あるいは、むしろ、正統派教会とグノーシスはどれほど違っていたといえるだろうか。もちろん違ってはいた。だが、その片方が正統、片方が異端と決められたのは、ローマ帝国の国教であるための政治的な決定にすぎないように思う。
 宗教改革のときに、ルターとエラスムスの間で戦われた、奴隷意志・自由意志論争は、どう決着がついたのかといえば、どんな決着もついておらず、三十年も戦争した結果、お互いの信仰を愚行と認め合うことにしたのだとすれば、非キリスト教徒にとっては、キリスト教全体が愚行なわけであるが、それはそれで悪いことではない。今にして思えば、たった三十年の戦争で決着がついたのだから。
 仏教もイスラム教も儒教神道も「愚行」であり、「迷信」であるに異論はない。「信仰の自由」は「迷信の自由」であるのは当然で、もし「信仰」が「真理」であるなら自由は必要ない。
 しかし、キリスト教徒がユダヤ教徒愚行権を認めるためには、第二次世界大戦を経なければならなかったし、ユダヤ教徒イスラム教徒は、半世紀以上戦争をして、いまだにお互いの愚行権を認め合うことができない。イスラムシーア派スンナ派は新たな戦争に歩を進めているようだし、イスラム教徒とキリスト教徒も対立を先鋭化しているようだ。
 キリスト教とはつまり、ローマ帝国ナショナリズムにすぎなかったと認めてしまってはどうだろうか。「真理の問題よりも歴史や文化の問題」だとすれば、そう言ってしまった方が事実に近いのではないか。すくなくとも、多数の無名の信者たちにとっては、信仰といいつつその本性は帰属意識にすぎなかったのではないか。宗教の名のもとに人を殺す、宗教戦争がやまないこともそれを裏付けているように思う。