『不寛容論』

「あなたがたのさばくべき者は、内の人たちではないか。外の人たちは、神がさばくのである」(「コリント人への第一の手紙」五・一二)」

—『不寛容論―アメリカが生んだ「共存」の哲学―(新潮選書)』森本あんり著
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 森本あんりのこの本を読んだ。アメリカって国はイギリスで迫害された清教徒が新天地を求めて入植したってあたりを起点に語られることが多い。ありがちなことだが、本国での差別を逃れてきた人たちなのに、新天地で中心的な存在になると、そこでの少数派を差別し始める。そんな時に、信仰は強要されるべきでないと主張した人がロジャー・ウィリアムズだった。

イギリス人よ、汝の生まれや血筋を誇るなかれ
汝の兄弟なるインディアンは、汝と同じに善く生まれたのである。
汝と彼を、神はひとつの血筋から造り給うた   
賢明に、美麗に、強靭に、人格として。   
生まれによれば、汝もインディアンも等しく神の怒りの子である   
恵みにより、神が汝と彼の魂をキリストによって贖うまでは。   
汝の回心と再生を確かにせよ。さもなくば、汝は見るであろう   
天国の門が、蛮人インディアンに開かれ、汝に閉ざされるのを。

 ロジャー・ウィリアムズは、こういうことを17世紀に言えた人だった。一時期はインディアンと生活を共にして、後には彼らの言葉の辞書まで出版した。
 ロジャー・ウィリアムズの評価はピルグリム・ファーザーの評価と反比例しているそうだ。メイフラワー号の最初の入植者が神聖化されているときには、ロジャー・ウィリアムズの存在はほとんど忘れられている。一方で、先住民の土地を奪い虐殺した、いわゆるアメリカの原罪にフォーカスが集まるとロジャー・ウィリアムズに注目が集まる。

 愛知のビエンナーレ日本会議電凸で一部の展示を引っ込めた時に、「わたしはあなたの意見に反対だが、あなたがそれを主張する権利は命をかけて守る」というヴォルテールの言葉を舛添要一tweetしていた。実際のところ、「表現の自由」についてはそれですべてなのだが、ところが、この舛添要一Tweetが炎上した。
 「表現の自由」もヴォルテールも知ったこっちゃないと人が思えるのは自分たちこそ正義だと思っているからだ。そういう人たちは、他者もまた「自分たちこそ正義だ」と考えているのが想像できないわけではない。おそらく、他者もまた自分と同じようだと思っているからこそ「表現の自由」を認めてはならないと考えている。口で言うほど自分が正義だと信じていないからこそ、政治的な力で他者の正義を抑えつけないと不安になるのだろう。
 宗教心のよわい地域ほど他者に対して不寛容になるそうだ。それは日本の難民政策を見ているとよくわかる。宗教という点で言えば「靖国」のようなエセ宗教を受け入れられる程度に浅薄な日本人のプロファイルとして実に説得力がある。
 欧州では30年戦争の後、ウェストファリア条約で互いの「愚行権」を認め合ったわけだが、日本もまた、仏教伝来の時、鎌倉仏教が弾圧された時、キリスト教が伝来した時、何度となく宗教をめぐる血なまぐさい争いがあった。それを踏まえた上で日本人を自認している人たちは、安直に正義をふりかざすはずがない。
 「寛容」は「正義」とは関係ない。「寛容」が対象とするのは常に「悪」である。「外の人たちは、神が裁く」のだから、キリスト教だけでなく、イスラム教でも、他の宗教を信じる人たちに対して、「寛容」であることが求められてきた。孔子は悪に報いるに善をもってすべきか、悪をもってすべきかと尋ねられた時、むしろ、不義に対するに義をもってせよと答えた。
 「寛容」であるべき時に正義を振りかざしているのは愚かすぎる。「寛容」は「正義の取り扱い説明」だと思えばいいんじゃないかと思う。もし人が「正義」を取り扱うつもりであれば、取り扱いに注意して然るべきだとは思ってもらいたいものだ。