深田晃司監督はとにかく『淵に立つ』がmasterpieceに間違いなく、観てない人は是非観てほしい。信頼できる作家だとわかるはずだ。
ニーチェの「反キリスト者」にも見られるようなキリスト教批判を、頭の片隅に置いていないキリスト教徒は狂信家と言っていいだろう。ニーチェのあの本には、キリスト教の悪いところが網羅されているが、一歩引いて眺めれば、ニーチェならずとも、あんなキリスト教批判は、中2でも思いつく、もし、狂信者でなければ。
そういう中2でも論破できるバカバカしい教義を何とか信じようとしてきた工夫がキリスト教文化だと言えるだろう。余りにもバカバカしい教義だからこそ信仰を集めるのであり、これは皮肉でもイヤミでもなく、この矛盾がキリスト教という阿片の効き目を強烈にしている。
キリスト教というドラッグが生んだドラッグカルチャーの豊かさを思えば、キリスト教を悪く言う気は失せる。しかし、ヨーロッパを文明社会にしているのは明らかに古典古代の伝統の方である。ライシテに見られるように、現代のフランスはむしろ非宗教化を誇りとしている。
深田晃司監督作品にはキリスト教徒がよく出てくる。キリスト教徒が少数派である日本社会への興味も、深田晃司作品がフランスで受ける理由のひとつかもしれない。日本という筋金入りの非宗教的社会の中でキリスト教を選択する人に、潜在的な興味を引かれるのではないかと、これは深読みというより勘ぐりに近いが。
『LOVE LIFE』のスタイルとしての美しさは、主人公の木村文乃、永山絢斗夫妻と、永山絢斗の両親夫婦、田口トモロヲと神野三鈴が、向かい合わせのマンションに住んでいること。ほとんど同じ間取りの2つの部屋を行き来しながら進んでいくドラマがスタイルとしてすでに美しい。
これに、木村文乃と彼女の連子であるケイタ君の間で交わされる手話(ケイタ君は健聴者だが、失踪した実父が聾だったので、木村文乃と彼はときどき手話で話す)の会話空間と、他の人たちとのずれ、また、突然現れるケイタ君の実父(砂田アトムという聾の俳優が演じている)が韓国人という設定なので、彼の言語空間とのずれ、そして、ケイタ君がオセロの大会で優勝しているので、彼がオセロゲームを戦っていたネット空間とのずれ、が加わって、ドラマが思わぬ方向に転んでいく。
永山絢斗には職場に山崎紘菜演じる元カノがいて、山崎紘菜からすると、木村文乃は彼女から彼を奪ったと言える。そこに木村文乃の元の夫の砂田アトムが現れるわけだから、ありきたりのドラマだと、展開は読めちゃうと思う。これをどのくらい外すかっていうところに深田晃司の力量が現れている。
砂田アトムの演じている元夫は、ホームレスのダメ人間という憎めないキャラだが、『淵に立つ』の浅野忠信と同じく、トリックスターとして、家庭に突然闖入して来る。ある意味ではこのトリックスターの闖入がこの夫婦を救ったといえる。『淵に立つ』の浅野忠信の存在が、古舘寛治と筒井真理子の一家を家族にしたと、これは古舘寛治のセリフにも語られている。
残酷な問いかけの映画でもある。山崎紘菜は、永山絢斗の家庭が無茶苦茶になればいいという望みがその通りになり、永山絢斗は連子が死んだからさあ次の子を作ろうと思い、連子の嫁が疎ましい舅と姑にとってはその連子がいなくなり、身も蓋もない言い方をすれば、実は、目の上のたんこぶだった子が誰のせいでもない事故で死んじゃったと言う状況。これは、もし、人生を経済効率だけで考えるなら、めでたいといってもいい状況である。
だからこそ、自分だけはこの子の死を悼まなければと考えて、ホームレスの元夫を支えようとする主人公なんだが・・・。
こういう問いかけが深田晃司映画の根底にはいつもあって、それがうまくいく時とそうでもない時があると思うけど、今回はすごく上手く決まっている。
ところで、目を見て話すについての一考察なんだけれど、目を見て話すことが失礼とされた時期は、日本には確実にあったと記憶する。たとえば、面接の時には面接官のネクタイを見ろとかの指導がなされていた気がする。『鎌倉殿の13人』を観ていて気がつくのは、登場人物たちが名前を呼ばない。次郎、小四郎、婿殿、蒲殿、YouTubeの解説によると昔は名前を呼ぶのも失礼にあたったそうだ。
目を見て話す、話さない、が文化に根ざしているのか、それとも個人的な心理なのか、なんとも言えないのだけれども、目を見ることが人間の交流のプリミティブな部分にあることは間違いなさそう。
なので、手話で会話する、つまり、目を見て話す元夫と目を見て話さない現夫の間に立つ木村文乃の気持ちが揺れるのはわかりやすい。ただし、目を見て話すからといって、その方が誠実であるとは限らないのもまた多くの人が経験する事実でもあるだろう。
ありがちなメロドラマのような入口から入って、意外な出口に導かれる不思議な映画だった。
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