『僕はイエス様が嫌い』

 『僕はイエス様が嫌い』っていう、たぶん、奥山大史っていう監督のデビュー作なんだと思う。もう、サンセバスチャン国際映画祭で最優秀新人監督賞、ストックホルム映画祭で最優秀撮影賞、マカオ国際映画祭でスペシャルメンション、ダブリン国際映画祭でで最優秀撮影賞など国際的な映画祭で受賞を重ねている。
 弱冠22歳とは思えない(にふさわしく?)、背伸びしない感じがいい。まず、見せなさがうまい。礼拝堂の外観を見せない。祖母の家の外観も見せない。サッカーのゴールポストも見せない。固定カメラでアングルにこだわっていて、結果として、少年ユラ君の心情に寄り添っている。でも、けっこう残酷なところは見せる。それも少年っぽさだと思う。子供のころの傍若無人さって、たぶんこんなだった。
 それから、泣かせなさがうまい。ありきたりな展開なら、ここで泣かせられるぞってところでも、泣かせてたまるかと思ってると思う。パってきりかえて笑わせちゃう。そこは、ものをつくるひとにとって、重要な資質だと思う。客に迎合しない。

 シナリオはむしろシンプルなんだが、チャド・マレーンの演じる、ちいさい「イエス様?」の存在で、シナリオの主筋とは別のレイヤーを作ることに成功している。おとなたちの生きているごく当たり前な世界のシナリオとは別に、少年の、あるいは、少年たちのこころに映っている世界の時間が、この映画の時間では二つの流れになって流れている。
 映画は、視覚芸術であると同時に時間芸術であるから、ひとつひとつのシーンが、少年の世界と大人の世界の二重写しになっているのは、贅沢なハーモニーなんだと思う。
 監督のインタビューによると、色補正には徹底的にこだわったそうだ。画面の端のフレアとか、ゴーストとか、教室の壁の色、教師のセーターの色、露出を上げて、コントラストを下げてとか、「イエス様は細部に宿る」といいますから。パウル・クレーの絵のように音楽性を感じさせる画面になっていると思う。
 聞くところによると、大学在学中に撮った映画で、今はすでに就職しているそうで、職を辞めるつもりはないそうだ。デビュー作にして、国際映画祭で受賞をかさねるような才能が、映画界で食っていこうとは思えない、日本映画ってそんな業界なのは、クリエイターの側でなく、業界を運営する側の人たちはちょっと反省するべきなんじゃないかと思う。この映画一本でこの監督に払われる対価は、知らないけど、いろいろともれ伝わるうわさからイメージすると、たぶん、大卒の初任給一年分をはるかに下回るんだろうと、そう思っちゃう。
 となると、就職しといたほうがいいな、となる。日本映画には優れたクリエイターはいっぱいいるんだけれど、この業界を業界として盛り上げていこうという企業家はあんまりいないみたい。若者の才能に無能な大人がたかってるだけでは、だんだん先細るのはしかたないみたい。ま、就職したほうがいいわ。
 ところで、ほかの人はどうか知らないが、子供の時の記憶って、大人になって振り返ると、明らかに現実ではないものが混じりこんでいると思うがどうだろうか。
 私の場合は、たぶん、小学校の高学年くらいまで、自分は子供のころ、祖父母の家の前で、交通事故にあって、大手術を受けた記憶があった。そうだと信じていた。しかし、ふと気が付くと、体のどこにも手術跡がない。となってはじめて、「あの記憶は事実じゃない」と思わざるえなくなった。その記憶については、自分でそう信じていただけで、誰にも話したことはなかった。何であんな記憶があったのか不思議だ。
 どこで読んだか記憶があいまいだが、子供がいたずらをしたとき「知らない小さなおじさんがやった」とか言ったとする。それは、事実でないに決まっているのだが、しかし、子供にとっては、ウソでもごまかしでもなく、ホントのことであるそうだ。だから、「くだらないウソついてんじゃねぇ」みたいな叱り方をしても、意味がないそうだ。この映画を観てちょっと思い出した。

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僕はイエス様が嫌い