『ワイルドライフ』を『ウィーアーリトルゾンビーズ』と比べてしまった

 ポール・ダノの初監督作品『ワイルドライフ』。
 ポール・ダノは、『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』、『ラブ&マーシー 終わらないメロディー』、『グランドフィナーレ』と観ているけれど、どれもすばらしく、その人の初監督作品というのだから、それは見逃せない。
 しかも、ジェィク・ギレンホール。
 ジェイク・ギレンホールの『ボストンストロング』は去年観た映画の中でもかなり好きな映画。個人的にはいちばん好きと言ってもいいかも。その前の年の『ノクターナル・アニマルズ』もすごくよかった。
 でも、今回の主役は、その奥さんを演じたキャリー・マリガンなのかもしれない。あるいは、山火事が主役なのかな。
 舞台は1960年のモンタナ。30代の夫婦とティーンエイジャーの息子が越してくる。でも、引っ越し早々に、お父さんが失業しちゃう。しかも、このお父さんは、せっかくの復職のチャンスを蹴って、ほとんどボランティア同然の山火事鎮火の仕事にでかけてしまう。
 実のところ、この父親の心理がうまく描かれているかというと、それはわからない。モンタナの空を煙が覆うという、山火事の迫力がうまく映像化できていないってことはあるかもしれない。
 ともかく、奥さんと子供が見知らぬ土地で収入もなく放置されることになる。1960年の30代は、今の30代とは意味が違う。キャリー・マリガンの演じる奥さんは、専業主婦という役割を突然失い、30代の一人の女になってしまう。見知らぬ土地でひとりの女として放り出された母親の迷走を十代の息子が見続ける。
 だんだんあやしい魅力を漂わせ始めるこのキャリー・マリガンは、どこかで観たなと記憶をたどってみると、『だれかの木琴』のときの常盤貴子を思い出させる。あのときの常盤貴子もすばらしかった。
 この映画は、ある日突然、父親と母親が、同時に、父と母という役割を放棄してしまうのを、なすすべもなく見守っている息子の視点で描かれている。『千と千尋の物語』のように豚にはならないが、しかし、ほとんどそれと同じように、両親が子供じみてしまうという、謎のイニシエーションを強いられるティーンエイジャーの物語である。
 これは、だから、長久允監督の『ウィーアーリトルゾンビーズ』と対照的なんだと思う。あの時も書いたけど、『ウィーアーリトルゾンビーズ』は映像の新しさの一方で、親と子の世代間の葛藤がまったく描かれていない。
 映画が、それを描かなければならない、義務も約束事もたしかにないが、『ウィーアーリトルゾンビーズ』の弱さはそこにあると私には見えた。長久允監督の前作である『そうして私たちはプールに金魚を、』には、主人公たちがおばさんになった姿が、主人公の妄想にあらわれる。そして、そのおばさんは「でも、そこそこしあわせ」と告げる。
 現状に不満を抱えたまま年をとっても、そこにはそれなりの幸せがあるだろうという世界観が『ウィーアーリトルゾンビーズ』にも引き継がれていて、あの少年たちは、最後には結局、その世界観が支配していると期待される「フツー」の世界に戻っていく。
 もし、そういうフツーに流通している世界観に変更を強いようとしないなら、サブカルチャーにとどまるしかない。言い換えれば、日本の現状のカルチャーを徹底的に避けていることで、かえって日本の今を浮き上がらせているともいえて、その点で、とてもユニークなんだが、問題は、いまや、日本のカルチャー自身が、大きな変動のうねりの時期にあるということで、「フツー」の「そこそこ幸せ」なんて価値観が無批判に信じられる時代ではなくなっているのだ。
 なので、大人の世界の下降のベクトルが捉えられていないために(何しろ主人公4人の親が全員死んでいるのだから)、子供たちの魅力的な活躍がどこかうつろに見えてしまう。
 『ワイルドライフ』はその逆に、おとなたちの下降は魅力的に描かれている。でも、逆に、子供の上昇のほうは、あまり魅力的ではない。60年代という時代を考えると、このときの十代の未来は、暗くない、明るくない、いずれにせよ、観客にスリリングな思いを抱かせることはない。
 それでも、ここには、あるゆる時代に共通する、世代を超える葛藤が、特に、キャリー・マリガンの演じる母親の苦闘ぶりをとおして描かれる。その意味で、この映画を観終わって、つい『ウィーアーリトルゾンビーズ』を思い出してしまったのは、突飛かもしれないが、すくなくとも日本社会の世代間の断絶を思うと、カルチャーが揺らいでいるときに、今の若い世代は、これをどうやってしのいでいくのか、ここに待ち受けている苦難について暗い思いにならざるえなかったからである。
 国会前でデモをしていた「SEALDs」という若者たちがいたのだけど、これがダメだと思ったのは、小熊英二(野田政権の時の反原発デモではまさにアイコンでもあった)の『民主と愛国』に描かれているような60年代のデモのように世代を超えたうねりになっていかなかったからだ。
 よくくらべられる日本とドイツだが、60年代がその流れを変えたように思う。ドイツでは「お父さん、戦場で何をしたの」と親に尋ねる運動が起きた。これに対して、日本の若者は、辺見 庸が述懐していたが、自分の父親に戦争のことを訊くことは避けていた。60年代の若者たちの運動はたしかに真摯だったにちがいないが、自分たちの親に対して優しかった。実際には、戦場で人を殺したのは親たちだったにもかかわらず。であるならば、家の外にでて叫んでいることが如何に真摯であろうとも、生活の場においては、それはなかったことになるということである。
 であれば、60年代の若者たちも、21世紀のSEALDsも、変革を叫ぶのは子供の時だけで、実社会に出れば、既成の慣習にしたがうことを黙認しあっていることになる。
 それでは、カルチャーが更新されるはずがない。
 ポール・ダノのこの初監督作品は名優の初監督らしく、実に、渋い演出で見せる手堅い映画だと思う。が、惜しむらくは、モンタナの空を煙が覆う山火事の迫力がビジュアルの面で成功していないと思う。
 これに対して、長久允の『ウィーアーリトルゾンビーズ』は、斬新な手法でカラフルで音楽に満ちた挑戦的な映画だ。しかし、そこにあらわれている親子関係の在り方となると、こちらの方がむしろ保守的になってしまう。『ウィーアーリトルゾンビーズ』は、登場人物の親を全員殺すことによって、日本の家族の危機をたしかに表しているのだが、ただ、少年たちの「諦め」を残念に思うのだ。
 こうして考えてくると是枝裕和監督の『万引き家族』が考えに浮かぶ。あの少年はたしかに「親」を越えていく。そして、あの「親」は確かに子供たちを巣立たせる。是枝裕和監督のその問題意識がやはり一段高いところにあった。
 登戸の事件もそうだけれど、家族が解体した社会の弱さを、日本人は今ひしひしと感じているのではないか。子と親の葛藤が言語ではなく、最後には暴力にしかならないなんて。その社会はやはり異常なのである。
 子と親に葛藤がなく、子がいつの間にか親の世界観に収れんされていく社会は、子が親に従属しつづける社会ということで、それは、そのまま日米安保の反映でもある。
 であれば、安保反対に端を発した日本の学生運動が、これを親子の関係とリンクさせなかったのはやはり欺瞞だった。政府とアメリカを批判しながら、自分は安全な場所にいたのである。その欺瞞の帰結が天皇の戦争責任論だろう。日本を戦争へと引きずり込んだのは、明確に軍部、なかんずく陸軍だったにもかかわらず、辻正信など、最大の戦犯と言っていい人物が戦後は平気で政治家をしていたのである。だとすれば、「天皇の戦争責任」という欺瞞に、いまだに固執する戦後リベラルが、力を失うのは当然の帰結であるように思う。